|
ある子ども図書館のこの夏のブック・フェアのキャッチフレーズは「ハリー・ポッターよりおもしろい本があるよ」だった・・・。 もういいかげんにしてくれ、と思ってしまう。 もし子どもたちに「そんなことないよ!」ときっぱり言い返されたら、いったいどーするんだ。 確かに「ハリー・ポッター」は軽いけど、軽いイコール悪い、にはならないんだ、というのがどうしてわかんないのかな。 第一そういうキャッチをつけた下に、いったい何を並べるのか・・・。 悪いけど私にはあんまり思いつかない。 今だって「パリポタ」をさっさと読み終わってしまった子たちに「次の本は?」といわれ、出すのにこまっているのに・・・。 斉藤洋が「ジーク」の2を出してくれたので、これでちょっと息がつけるかな、だけどあとは岡田淳を少々、斉藤洋を少々・・・・そうして『精霊の守り人』タイプのファンタジー系は女の子チックなのが多いので、男の子のなかにはこれはヤだ、という子が結構いる。 こういう例でわからない人もいるかもしれないけど、両方うまくておもしろくても、男の子はやっぱり、「犬夜叉」より「ワン・ピース」なんだよ。(わかんない人はわかる人にきいて) それにそういうものはあらかたもう読まれてしまっていて役に立たない、ことが多い。 そうして『ハリポタ』のことをいう人がきまって引き合いに出すのがご存じ『ゲド戦記』なわけだけど、はっきりいって『ゲド』なんてもう古い! んだってことがわかんないのかな?! いや、大人にはいいよ。 私だって大人に訊かれれば結構『ゲド』はあげる。特にフェミニズム系の人には2巻の「こわれた腕輪」を。 『ゲド』が初めて翻訳された時、あれはしょうげきだった・・・。 私だって夢中で読んだ・・・。 でも、当時新しい概念だった、自分の中の善と悪が具立つに別れて戦い、統合される、というパターンは今では『常識』なのだ。 昔、レムが「2001年宇宙の旅」を書いた時、それは最先端を飛び越えた未来で、わかる人なんてほとんどいなくて、だからそれは非常識だった。(注) それが最先端になり、今やSFの基礎知識である。現代SFはレムから始まるといってもいいくらいだ。 だからレムはいまだにうやうやしく語られ、SFファンなら必ず読むのだろうが、そうでない人にとっては読まなくてもすむものなのだ。 読まなくても、たとえシュワルツネガーのSF映画しか見なくても、レムはちゃんとその一部に息づいているのだから・・・。 一九五〇年代にレムにぶちあたったしょうげきを、今の二〇〇一年のティーンエイジャーに求めても無理なように、一九八〇年代に『ゲド』にぶちあたったしょうげきを、今、二〇〇一年の十五才に望むのは世間知らずというか、利己主義というか、はなはだ身勝手である。 自分がそうだったからといって、なぜ、他人にもそれを要求してもいい、と思ってしまえるのだろう? 人間はだれだってホントは自分のことしか考えていない・・・。自分が大事、自分しかキョーミなんかない・・・。 だから自分がおもしろいと思ったものを他人にもおもしろいと思ってもらいたい?! と思うのは自然な感情で、ある程度それが満たされないと人間は幸福にはなりにくい・・・。(もちろんたまにはそんなものを超越してしまったひとだっているが) だからといってそれを当然だと押しつけられたら他人はたまったものではないし、そういう人は大人になっている、とはいえない・・・未成熟だとしか思えないじゃないですか。 軽い重いにしたって『ゲド』だって比べるものによっては超軽い、といえなくもない。 こんなくだらん幼稚な読み物はやめて、おおもとである「論語」を読みなさい、というご意見だって、あながちまとはずれとはいえないでしょう。だってそれはその通り、なのだから・・・。 だれかがいってた『魔法のベッド』のほうがずっとおもしろいのに・・・に至っては、もうなにをかいわんや、である。 だってあれは私が子どもの頃にだってすでに古かったのだから・・・。 もちろん私が楽しんで読んだ・・・。 私は『飛ぶ船』やアーサー・ランサムや名探偵カッレくんやケストナーに溺れて大きくなったくちだが、だからといってそういうものを今の子どもたちに渡そうとは思わない。 もし内容的には今でも通用するとしても、渡すならそれなりの演出が必要だ。 『魔法のベッド』は現代の味付けをしてアニメにしたら居あの子でも楽しめるだろうと思う。 ほんのサイズ、活字の字体、表紙の絵、そういういわば服を着せ替えることによってよみがえる本だってそれはあるだろうと思う。 それをしないで「ハリー・ポッター」より・・・と嘆く、もしくは子どもたちを悪くいうのはお門違いというものだ。 私がこのテの「ハリー・ポッターよりおもしろい本があるよ」というたぐいのものをみるたびに思うのは、まあ、この人たちって自分のことを愛しているのね・・・そうして子どもたちのことを愛していないのね・・・ということである。 というわけで「ハリー・ポッター」は私にとっては新しい踏み絵となってしまった。 ちっとも嬉しくないが。 (注)ここで挙げられている「2001年宇宙の旅」はアーサー・C・クラーク作であり、スタニスラフ・レムなら「宇宙創世紀ロボットの旅」が妥当で、文脈から察するに、ここでは後者が正しいと思われる。ひこ・田中。 |
|