一才の子は本を選べないって?!

           
         
         
         
         
         
         
    
 各地で「ブックスタート」なるものが始まった。
 これはいぎりすで始まったサービスで、一歳児検診とかに、つまり図書館以外のところに行った時に、赤ちゃんと保護者に本ともよりの図書館の案内や利用方法を渡したり説明したりお話してみせたりするものである。
 きいただけではなかなかいいと思うでしょう。
 ところがこれを日本に導入するとどうなるかというと、図書館は人手がないから(それができる人だって少ないしね)そこで説明したりお話のおもしろさを伝えるのにボランティアにやってもらおう、ということになる。
 日本のお話ボランティアの現状は知っての通りである。
 腕の良い人もいるしそうでもない人もいる。
 そうしてそこで自己実現したい、共依存の人たちもいっぱいいる。
(共依存に関しては「心の傷をよみとくための800冊の本」自由国民社、を見てね)
 でもそれよりも私が、がっかりしたのは単に本を配ればいいんでしょう・・・になりがちで、しかもその本はどこのだれかわからない、たいていは子どものほんのことなどひとつも知らない、教育委員のおじさんが選ぶことで(なんで図書館員が選ばないの?)おまけにそれは大人が勝手に選ぶのであって、肝心の子どもの意見は通らない、ということなのである。
 一才の子の本は選べないって?!
 冗談でしょう。
 すくすく育って可愛がられている子なら、どれにする? といわれれば、よっぽどつまらない本が選んでない限り、なんらかのアクションを起こすものだ。
 なんで決めた本を渡す・・・のではなくて、子ども自身に選んでいただく・・・というふうにならないのだろうか?
 だって子どもがどれを選んだって、あらかじめ図書館員が選んでおくのだから悪い本はないに決まっている。
 だったら決めた本を渡したっていいじゃない? とおっしゃるかもしれないが、相手に選択を渡さない、ということは「支配」の第一歩なのだ。
 いじめがなぜなくならないか・・・答えはカンタンである。
 人をいじめるのは楽しいからだ。
 人に自分のいうことをきかせ、思いのままにすることはとてつもなく気持ちの良いことなのだ。
 それはその人の無力感や不安感をなだめてくれる・・・。
 だからもちろん自分に満足し、幸福な人間は人を支配したいとは思わないものだ。そんなことをしているヒマがあったら自分が楽しいことをするほうがいいし、そういう人にとっては人を支配し、いじめることはおぞましいことになる。
 どっちでもいいことなら、なるべく相手に選択権を与える・・・自分は手放す・・・というのが、うっかりこのわなにはまらないようにする手っ取り早い方法だと私は思う。
 日本文化というもの自体が「共依存」にはまりやすいのだとしたら、日頃からこの程度の用心はするべきだろう。
 子どもに害のないものは、ごく小さいうちから「子どもが決める」ということにしておけば、子どもたちは必然的に自分で考えるようになるだろうし、もともと子どもたちは、自分で考えるのだ。
 大人がそれを取り上げているだけなのだ。
 もちろん百パーセント自由にされたら困る。
 小さい子にとってこの世は不安に満ちているのだから。
 でも「保護」すること・・・相手を尊重し、フォローすることと、「支配」すること、私のいう通りにしていればいいのよ、は違うのだ。
 子どもにだって好みがあるのだから、大人だって良い本をすべて好きなわけじゃないように、良くても好きでない本をもらっても嬉しくないだろう。
 どこか、二百冊くらいの見本を並べておいて、さあ、どれにする? という豊かで遊び心にあふれた、太っ腹な自治体はないものだろうか?
 それは確実に、将来その町の役に立つ人を育てることになるのだけど・・。