これは沖縄県高等学校図書館協議会司書部が作っている「緋桃」という雑誌にのせたゲンコーです。
沖縄県以外の方の目には触れないだろうと思い、ここに載せていただきます。
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先日手登根千津子と話をしていて驚きのあまり、えっ!!とのけぞったことがあった。 その前にあったときになにかおもしろい本を教えて欲しいというので何冊か紹介したところ、読んでおもしろかったので生徒たちにも推めたのだが、どうもかん子さんのようにうまく説明できないらしく反応がはかばかしくなかった、というのだ。 あったりまえじゃん!! 人に本を推める時、というよりこっちからわざわざ推めるなんてことはないから、頼まれた時の鉄則は自分におもしろいかどうかはどうでもいい……相手がおもしろいと思うだろうものを出す、ということである。 相手が今何を考え、どういうものが好きでかつ読解力のレベルその他あらゆる方向から考えて、これならおもしろいと感じてくれるだろうという予測のもとに一冊の本は差し出されるのである。 私は手登根さんに聞かれたのだから、当然手登根さんがおもしろいと思ってくれるだろうと判断した本を出したのであって、それが高校生にもおもしろいなどとはひとこともいってないぞ! もちろん一冊一冊の作品に対して、これは上等、とかあまりうまくない、という判断は絵とか陶器などと同じように本にもある。 シロートが初めて作ったつぼが名人の作ったものと同じに仕上がるなんてことはやっぱりないのだ。 それを全部いっしょくたにされたんじゃ、腕の良い職人の立つ瀬がないでしょう。 だから本にもすごーく上等なものとゴミ同然、という判断は当然あるが、これは良い秀れた本だから、という理由だけでひとさまにお推めなんてできるわけがない。 だいたい20世紀文学のターニングポイントとなった偉大な文学といえば、だれだってプルーストの「失われた時を求めて」とメルヴィルの「白鯨」……それとジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」をあげるだろうが、この三冊を推められて心からおもしろーい、といえる人間がどれくらい、いるだろう?(本当はおもしろい本だけどさ。) あまりにも上等すぎて推められない本だって当然あるわけよ。 人間は一人一人違う……。 一人一人、好みも性格も置かれた状況も必要なものも―。 だからこそ司書という仕事はおもしろいのである。 どこの高校の図書室にも、極上の同じ本をずらりと並べて置けば良いのだったら司書なんかいらない。 せいとは一人一人違うからこそ生身の、生きた人間の司書がいて、微妙に処方の違う本を差し出すことが必要なのである。 自分がおもしろいと思った本を選び、並べるのではない。 生徒におもしろいだろう、役に立つだろう、必要だろう、と思う本を差し出し、並べるのが高校の司書の仕事なのだ。 こちらはもう15才ではない。 彼らとは20年も30年も年の離れたオバサンである。好みや皮膚感覚が同じはずがない。 でも、だからこそ大人の判断力を持って、彼らに本を探してきてやることができるのだ。 オバサンが好きだと思うような本は、たいていオバサンにしかウケないものだ。 自分が好きだと思う服やたべものや本をだれかれとなく、相手のことを考えずに人に推めてあるくのはアマチュアのやることである。 そうしてかつ、そういうことをする人はあまり歓迎されないものである。 そういう人は洞察力だの大人の分別だの相手に対する思いやりに欠けているからね。 自分が好きな本を高校生に推めてはいけない。相手の好みの本、役に立ったといって喜ばれる本を用意するのがプロである。 みなさん、プロになりましょう! (あかぎ かんこ 児童文学研究家) |
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