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さて、次は「図書館資料論」である。 久しぶりに「図書館学」のかたまりにぶつかって何が一番変わったというか驚いたかというと、コンピュータ関係が凄く増えたということだ。 というより、二十五年前くらいにはたしか公共図書館にコンピュータを入れるな、という運動があったような気がする・・・。 でも本=情報なのだから、情報の伝達方法が変われば図書館が変わるのも当然で、変わらなければおかしいんだけど、この「図書館資料論」も本ではなく電子情報の話だ、そうしてそれにつれてというか、この講師もどうみても二十代の兄ちゃんだ。若い。 そうすると、今までは「図書館資料」というのは「図書館で収集し、保存し、利用に供する」もの、という定義だったのに、アサヒシンブンシャがやっているサービスに、図書館も契約するけど、個人でも契約できる。図書館を経ないで情報はいくし、そもそもその情報は図書館の外にある、という場合、その情報は「図書館資料」といえるんだろうか、という話になる。 新聞の縮刷版を買う、もしくはCDROMを買えばそれは「図書館資料」といえるだろうけどさ。 つまり形あるものは図書館の内側に集められるけど、ないものは集められないからね。 というわけでそういう話をききながらつらつらと私が考えたのは、まず第一に自分でコンピュータを扱えない人(私、私ね!)は自分ではできないわけだから図書館に行くことになるだろう。 これは「文字(もじ)にもいえることで、基本的に日本の少なくとも公共図書館は日本字が読めないと使えないとこだが、本来は字が読めない人にだって口頭でサービスするべきなのだ。 今のところ目の見えない人にはそういうサービスが定着(ま、少なくとも言葉はある)しているが、日本語ができない外国人の人たちや、文盲の人たちに対するサービスというのはそういう考えそのものがほとんどないに等しいと思う。 そういう情報弱者(というそうだ・・・。失礼なことばだぜ。特に自分がそこにおかれてみると実感するよ。弱者になるのはフォローが欠けているからにすぎないんだから)が増えれば図書館の仕事のうち、レファレンスサービスの需要はますます増えるだろうということだ。 本やシンブンや雑誌だけではない・・・。 ひとコマしか覚えていないマンガ・・・。 ロゼッタ・ストーンが出てくるビデオはないか、解説つきで・・・。 中国から発掘された羽のある恐竜が見られるビデオが見たい・・。 ワンフレーズしか覚えていない音楽・・・。 今までも図書館はそういう種類に活字のレファレンスに応えてきたわけだけど、確かにモノによっては活字よりビジュアルの方がいい場合がある。たとえば風景。場合によってはその空や土の色を見ただけでギモンがとけることもあるし(*) *昔、オーストラリアのパトリシア。ライトソンがファンタジーを書こうとしたとき、最初イギリスの金髪、青い眼の妖精を描いたらどうしても動いてくれない。で、最後にアボリジニの人たちの妖精を使ったら赤い土、赤い山の風土にしっくりあって主人公たちが動き出した・・・。というエピソードがあった。が色のことなのでどうもピンとこない。が、ある時テレビでオーストラリアの山がうつり、その瞬間になるほど、と思ったのだった。確かにあの赤い色。 もちろんモノによっては活字のほうが便利なこともあるから、ビジュアル万能だと思うのはマチガイだけど・・・。 CDROMを使えば、たとえば鳥の図鑑などは声まできけることになってパチパチパチだけど、だからってモーリーン・ランボーンの「鳥」(同朋舎 10000円)の値打ちがなくなるわけじゃないからね。 凄い本だもん、あれ。 それにコンピュータのなか、というのは無限に近い・・・少なくとも100年しか生きられない人間にとっては無限に近い。 やっぱり今の図書館のように(腕のよい司書がいて、ちゃんと本と本棚を運営されている図書館、という条件つきだけど)だれかがセレクトしてくれないと「お店」でなく「倉庫」になってしまう。 どこまでも見渡す限り本棚・・・の並んでいる巨大な倉庫のなかにポツン、と立っている自分を想像してごらんよ。 途方にくれない? 情報が巨大になればなるほど、そこには「人で」が必要になってくるのは本もコンピュータも変わらない・・・少なくとも使うほうが有限の能力しかない人間であるあいだは。 たとえば農業でいきている小さい町の図書館が、自分の町で作れそうな作物の研究をしている農学部のホームページや研究論文をピックアップして自分とこのコンピュータに入れておいてくれたら町の人はどんなに助かることだろう。 まずそのホームページを探し出す、という苦労はしなくてすむのだから・・・。 たとえコンピュータが使えたとしても、それをするほどみんなひまじゃないものね。 というわけで、コンピュータ化しようがどうしようが、貸し出し、返却、などのやりかたは変わるかもしれないが、図書館の根っこ的な姿勢はゼンゼン変わんないなあ、というのが私の結論である。 しかし・・・しかし、図書館員、つまり司書は市民にとって変わってネットの海の中を自由に泳いで目指す岸辺に辿り着く、という「技術」を持ってないといけないということになるよね〜、今までの本を使うのに必要だった文化的な知識に加えて・・・。 と考えると思わずしくしく、と思うのであった。 |
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