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物語が力を失ってきているとは何年も前から指摘され続けている。それは、物語の外側、つまり現実が物語めいて来ている、又は物語であるかのように感受できてしまう時代の現象なのだといえる。もちろん今のフレーズの「現実」と「物語」を入れ替えてもかまわない。物語と現実は互いに侵食し合って、もはや物語はそれだけで完結する力を失いつつあるといってもいい。京都での女子殺害事件が神戸のそれと重ね合わせられてしまうこと、大阪の女子誘拐未遂がグリコ・森永のリメイクと見えることなど、現実もオリジナリティとリアリティの希薄さをさらけ出している。 さて児童文学。今回は物語系以外の作品を覗いてみる。 ジョアンナ・コール『ミツバチのなぞ』(ブルース・ディーギン絵 藤田千枝訳 岩波書店)は『フリズル先生のマジック・スクールバス』の中の一冊。段取りはいつも同じで、あるテーマの研究、この場合だとミツバチの生態を調べにフリズル先生と生徒たちがスクールバスに乗りこむのだが、バスは姿を変え、その現場の内部へと彼らを連れ込んでいく。つまり外からの観察を、体験へと反転する。今回はバスが縮んで小さなハチの巣となり、彼らもハチもどきに姿を変えるわけだ。そうしてこの絵本はミツバチに関する驚くほど多くの情報(ちょっと数えただけで百以上はある)を内部から発信してくれる。役割分担や花の受粉に寄与していることはもちろん、花のある方向を仲間に伝えるダンスから、花のみつをはちみつに変える方法まで。これ一冊で大人である私たちでさえミツバチへの新しい視点を手に入れることができるといってもいいほどだ。大げさに述べれば、私と世界の接点が一つ増えた。何よりもいいのはスタンス。子ども向けの絵本として知育を目指しているのではなく、ただただ、事実だけをそこに置いている。ただし、たった一日で見て回るのだから、一日でミツバチの生態を描 くには誇張や時間の圧縮が生じている。だから、最後に、擬虫化し一日で生徒が体験したことは、本当は何日もかかるし、子どもはハチにはなれないと、擬虫化そのものを笑い飛ばす余裕もいい。それが情報への信頼度を増す。 かこさとし『ヒガンバナのひみつ』(小峰書店)は、全国に三二〇種類あるヒガンバナの異名を十五のカテゴリーに分けて説明していく。薬草であり、毒草であり、非常食であり、彼岸頃にさく花でもあるそれ。何がひみつなのかはここには書かないが、たった一つの花が三二〇もの呼び名を持つ様は、たった一つの本当の自分さがしに走ってしまいがちな(だから現実が物語化されてしまう)昨今、ある種の開放感を与えてくれる。 ジョーン・スタイナー『にたものランド』(まえざわあきえ訳 徳間書店)は、例えば蒸気機関車が見開き一杯に描かれているのだが、よくよく観ると、そのパーツのどれもが別の物を使っていて、それを探す趣向。車輪は飲料水の缶や時計、エントツは糸巻き、給水塔はコーヒーカップなど、一つの画面は実に百数十の別のパーツによって見事に再現されている。全てを見つけるのは一日仕事になるだろう楽しい仕掛けだ。希薄な現実の中でこの画面を見入っていると、見る側と画面、どちらが虚構であるかがあいまいになり、目眩がする。その意味では単なる発想絵本ではなく時代を呼吸している。
読書人2000/01
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