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オーストリアの新政権に、ヨーロッパは沸騰している。偶然やけど、ちょうどそのとき読んでいたのは、『ウィーンの内部への旅』(ゲルハルト・ロート 須永恒雄・訳 彩流社)と『ケストナー』(クラウス・コー 那須田淳+木本栄・訳 偕成社)。前者は九つの建築物(シュテンファン寺院からヒトラー・ヴィラまで)を素材にウィーンなる「オーストリアの頭部」の解析を試みたもので児童書とは関係ない(でもお薦め)が、後者は世界的に著名な児童文学者+詩人+シナリオ作家.etcであり、ナチス時代のドイツに留まった人、ケストナーの伝記。伝記は、書かれる側との距離の取り方が難しいけれど、この本は彼の作品・日記、周りの人々のケストナー評など、引用の仕方が絶妙で、べったりと寄り添ってしまう危険性をうまく回避していてる。「敵(ナチスに代表されるファシズム)をあまりにもみくびってやしないか」(ウォルター・ヴェンヤミン)との批判を提示し、「この言葉は的を射ていた。ナチスが政権をにぎったときでさえ、ケストナーはまだそのおそろしさをさとらず、ドイツに踏みとどまって一緒に戦おうよとよびかけた。おかげで何人もの友人たちがナ チスに殺されてしまったのだ」と受けるといった風に。ここにあるケストナーは、伝記的人物というより、弱点をさらけ出し、とても人間くさい。そんな彼の『動物会議』(岩波書店)が昨年の生誕百周年を記念し、大型絵本として復刻された。大戦を経てもなお各国のエゴを剥き出しにする人間に怒った動物たちが会議を開き、子どものためのより良いの世界を要求するこの物語から「50年たった今も、事態はまったく変わっていない」(訳者あとがき)のは確かだし、同時に、動物と人間の「おえらがた」が調印する「1 すべての国境の標識と警備兵は、これを排除する。もはや国境は存在しない」に始まる条約のシンプルな真っ当ぶりは、めまいを感じさせもする。それはケストナーがナチスによって執筆を禁止されていた時代に書き、戦後発表された『ふたりのロッテ』と、トールモー・ハウゲンの最新訳『月の石』(WAVE出版)を読み比べることからも得られる。離婚した両親が子どもたちの願いによって再び結ばれる『ロッテ』には、親子のコミュニケーション力や、子どもが子どもであることで大人に及ぼす力(<子ども>という切り札と言い換えてもいい)への信頼が
ある。それらは、複雑な手続きや迂回路を経ることでやっと保持できるものではなく、予め存在するものだと。だからそれらが消失した設定(この場合だと、離婚したことを隠した両親がそれぞれの一人っ子としてふたごを育ていること)から始めた物語は、それらを回復する結びを用意できる。
『月の石』はどうか? オスロで何に不自由なく豪邸に暮らすニコライだが、両親の不和を抱えている。その背景は、単純ではない。まず、彼の曾祖母フロリンダは、愛娘イドゥンが息子のマキシムを残して失踪したことの傷みを抱えており、なおかつ、娘に代わって育てるはずの孫マキシムが夫であったアサーにうりふたつであっため、遠ざけてしまった過去を持つ。マキシムはといえば、息子ニコライの愛し方が解らない……、といった具合だ。物語自身は、ニコライに届いた不思議な声、「月の光が失われようとしている。力を貸して」から動き出し、「ロシア皇帝の宝石」とも呼ばれる七つの月の石を巡っての神話・伝説、通りぬけられる鏡、陰謀などの魅力的な道具立てで進んでいくのだけれど、ニコライの子どもとしての力が両親を変えはしないし、両親の関係が改善の兆しをみせてもニコライが望むのは、曾祖母と暮らすことなのだ。
ケストナーがもはや古いわけではないだろう。そうでなく、<子ども>という切り札を切れない子どものサバイバルまで、描かれる子ども像が拡がってきているのやね。
読書人2000/02
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