03/2000

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 「プレイ・ステーション2」がいよいよ発売となった。前日の店頭には整理券を求めて昨日から並んでいる若者たち。妙にハイな気分が漂っている。あ、大人も結構混じっている。いやそうではない。ゲーム第一世代がもう大人なのだ。かつてマンガがそうであったように、ファミコンから一七年、ゲームは世代を固定しないメディアとなったのだ。けれど、初回出荷百万台が数時間で売り切れるであろう事態には、いささかたじろぐ。
 『ほんとうはこんな本が読みたかった! 児童文学の【現在】セレクト57』(上原里佳他 原書房)は、子ども時代に「子どもの本」に親しんだ三十歳前後の研究者たちが今と、今も、「おもしろい」と思う物語たちを紹介した書物。「私たちは、子ども読者を絶対的な基準にせず、『子どもにおすすめ』という伝家の宝刀を使っていません」(鈴木宏枝)との「まえがき」は同時に、「子どもをたどって到達する根源的な文学が、子どもの文学」といった、「子ども読者」とは別の<子ども>を持ち出してしまう揺れがあるが、ゲーム第一世代が「プレイ・ステーション2」を買いに走る様に似て、「子どもの本」を大人になった読者にとってのツールとしても使おうとの試みは、買い。そしてこの「まえがき」の「子ども読者を絶対的な基準にせず」を受けての「あとがき」において、監修者でもある神宮輝夫は、「おとなが子どもを読者と考えて、子どものために作品を書きはじめたのは、じつはごく最近のことではないかと私は考えはじめています」と刺激的な一文を記す。「一九八○年代になって、世界的に子どもの文学が売れなくなり、その原因が間題になりはじめた頃 から、『子どもの反応』を梃に子どもの文学を変える動きが加速をはじめました。私は、このあたりではじめて子どもの文学の作家や評論家や出版人たちが『子ども』と向き合ったと思っています」。とても判りやすく面白い。
 『ほんとうは〜』自身は、「RPGの元祖だから『ホビット』がすごいのではない。(略)ゲームでは到底表現することができない主人公の内面的な成長、グラフィックだけでは表現できない登場人物たちの生活や文化、仲間との絆など」(神戸万知)といった、「プレイ・ステーション2」に並んでいる人々が脱力するであろう記述も見られる。けれど、例えば、予めTVドラマとして知った作品、アニメで知っていた作品、『BANANA FISH』(吉田秋生)が引用される作品という風に、それ以前の世代では不可能であった視点があり読ませる書物ではある。
 去年の暮れから怒濤のごとく訳出されたのが、フランチェスカ・リア・ブロックの作品群。女の子が主人公の小さな物語が九つの短編集『少女神9号』(金原瑞人・訳 理論社)と、学校で一番クールなダークと付き合いだしたウィーツィだが、実はダークはゲイで、じゃ別れるのかといえばそうでなく、二人でいい男を捜そうというところからスタートする『ウィーツィ・バット ブックス』全五巻(金原瑞人+小川美紀・訳 東京創元社)。これらの物語を一気に読み終えて、ボーッとしている。
 『ウィーツィ』はウィーツィとその子どもの世代、そうしてダークの祖母の時代へとも遡り、ビートニクから現代に至るポップカルチャーでとらえたクールなアメリカ史でもあるのだけれど、個々の巻の主人公たちがそれぞれの抱えた傷や喪失感をどう持ちこたえていくかの部分がやはり大きな魅力となっている。一読すればただちに日本の少女マンガを思い浮かべる人も多いだろう(大島弓子、川原泉、清水玲子、遠藤淑子ナド)。複雑にからまった事象をデフォルメし、ショートカットしてもいいところはして、「大丈夫」とのメッセージを届ける技、力を持っていることで、ブロック作品は「『子ども』と向き合」っている。ブックスの最後の一行は、「物語はぼくたちを自由にしてくれる。それを自由にしてやれば」。魔法のようなショートカットではないか!