05/2000

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 プリケーを使用したキッド・ナップが話題になっている昨今、ある通信会社が新聞で「一人歩きが、心配だから」子どもの日のプレゼントにプリケーを与えようの全面広告。そして、『それって人権?』(喜多明人:文 木原千春:絵 大月書店)では「わたしの携帯が鳴った。『リエちゃん、ちゃんと塾に言ってる? さぼっちゃだめよ』わたしが遊ぼうとすると、お母さんに持たせられた携帯が鳴る」とあり、人権先生のハムスター・ジャスティーの返事は「リエのお母さんが携帯電話を持たせて監視しているのも問題だね。プライバシーの侵害だ」。この三つには、ケイタイを巡っての利点とヤバさがうまくせり出しているが、そのこと以上に、もう引き返せないケイタイの時代の中心に子どももいることも示唆している。『それって人権?』は「人権の絵本」シリーズの一つ。いじめや性差別から、集会・結社の自由まで、ありとあらゆる問題が採り上げられている。見開き左右がQ&Aとなっているので、そのAに対する新たなQなどを持ち出せば、おもしろい授業展開のアイテムに出来る。
 「新聞メディアでも、特に朝日新聞は顕著なのだが、児童文学の書評や記事をなぜ家庭欄でしか取り上げないのか。児童文学は文学ではないのか」との「まえがき」が置かれた『何だ難だ!児童文学』(さねとうあきら・中島信子・長谷川知子 編書房)は、さねとう自身の「児童文学の原点はやはり『戦争』でしょうね」を受け、戦争を描いた児童文学の話題から始まる。それは話の流れなのか、編集方針だったのかはわからないが、結果的に第一章のタイトルが「児童文学創世記」とあるように時間軸にそって展開され、学校での歴史授業が現代まで至らず終わるに似て、肝心の「今」にはあまり触れることなく終わってしまう。『ぼんぼん』や『兎の眼』批判に盛り上がるのはいいが、それが「今」につながっていないなら「今更」の感がする。裏話披露の放談やなく、論としてちゃんと書いて欲しい。そんなもんだから、三人が個別に書いた「あとがき」にあたる第三章「児童文学アトランダム」がかろうじて「今」に近いものになる。例えばさねとうが『現代児童文学の語るもの』(宮川健郎)に触れて「子どもから大人へ一定方向に成長していくのではなく、同一平面上の差異 、相対的なものに過ぎないのではないか、という見方を(宮川は・ひこ注)披露している。これを徹底させれば、児童文学と一般文学の境界は暖昧になり、ついには霧散霧消してしまうだろうという悲観論につながっていく」と書いたことを軸に鼎談も可能だったと思うのだが。せっかくの機会であっただけにちょっと勿体ない。
 『さよならママ』(エリザベス・ツェラー 清水美子:訳 徳間書店)と『ひかりの季節に』(大谷美和子 くもん出版)は、共に死を巡る物語。『さよならママ』、一三歳のドードーは誕生日に日記帳をママからもらう。日記帳とは、自分の想いを自分の言葉で自分のために書く場所なわけだが、ちょうどそのときママが不治の病に倒れる。子どもが成人になるのを見ることなく死ななければならないママの悔しさ、理不尽さへのドードーの怒り、そして恋。物語はよけいなナレーターを排し、日記だけで静かに進んでいく。死をドードーが受け入れていくのを読み手が納得できるのはなによりもそこにある。ドードーは日記を書くことで自己の内面を言葉に置換するわけだが、読み手もまたその作業に同行することとなるからだ。『ひかりの季節に』は、好きだった年上のいとこ輝を失ったみさきの中に芽生えた「死」への恐れと怒りを描いていく。彼女は日記を付けていないが、輝に買ってもらったロバの縫いぐるみ(決して死なない)ローバーに話しかけることでバランスを保っている。みさきの心を溶かすため、物語は同居することとなった祖父の恋を配置する 。誰でもいつかは死ぬけれど、その一瞬まで生きようとする、と。このありがちな設定をうまく活かしていると思うが、結果的に「死」から軸がズレてしまったのが惜しい。精神科医である平山正実の「解説」がついているが、これは余分だ。