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三年前、十四歳が語られ、その三年後の今十七歳が語られる。起こっている事件はともかく、いささか拍子抜けしてしまう。そしてこの十七年を検証するなんてことがTV番組で流れているのやけれど、たまたま十七年前がフェミコン発売年なものだから、要因をそっちに求めようとするきらいがあり、苦笑。となると、たまたまTV放映元年に生まれた私と同年齢の者はいったいどうだったというのであろうとTVに向かって問いかけたくなる。
さて児童文学。夏休み。川で泳いでいたゲンタはカッパの網に捕まってしまう、『カッパのぬけがら』(なかがわちひろ 理論社)。ようやく解放されるけれど、当のカッパはゲンタの前で殿様と家来の一人芝居。この川にはもうカッパは彼一人しかいないのだ。カッパは百年に一度脱皮するのだけれど、ちょうど今年がそうで、脱皮したてのぬけがらがある。ゲンタはそれを着てカッパとなり、カッパの日々を過ごし、季節は変わり人間世界に戻る。おみやげはぬけがら。一年後の夏、川に行き、すっかり乾いてしまったぬけがらを水で戻し、ゲンタは着ようとする、が、体が大きくなっていたのでぬけがらは破れてしまう。それを見ていたカッパは水の奥深くに帰っていく。とてもシンプルでユーモラスなこの絵物語は、やはり「今」を呼吸している。一人芝居をするカッパのロールプレイ、ぬけがら(モビルスーツ)を使ってカッパを体験するゲンタのシミュレーション。そして、破れてしまうぬけがら(脱皮)。何かを獲得し成長するといった右肩上がりの物語スタイルとは別の可能性がここにはほの見える。
一方、『ダンデライオン』(メルバン・バージェス 東京創元社)は、子どもが堕ちていくさまを徹底的に描くことで、右肩上がりからの迂回路を提示している。共に十四歳のタールとジェンマ。タールは父親の暴力から逃れるため家出をする。過干渉な両親にうんざりしているジェンマもそれに続く。ちょうどピッピィが空家を占拠するムーブメントの八〇年代。運良く彼らはその一つに身を寄せるのだが、もっとアウトローに生きたいと思う二人は、ジャンキー二人組の所に移る。ヘロインなんていつでも止める自信があるというタールたちだが、もちろんそれはジャンキーの常套句であり、彼らは誘惑に負け、底の底まで堕ちていく。といってもこれは麻薬撲滅キャンペーン的物語ではない。ヘロインの恐ろしさと同時にそれがどう魅力的に見えるのかまでをバージェスは実にリアルに描いている。そう、ヘロインに手を出したくなる気持ちまでもが伝わってくるのだ。従ってこれを子どもに読ませたくない大人も多いだろう。と同時に、だからこそ、子どもにとってはとてもおもしろいに違いない(へたな撲滅キャンペーンよりよほど効果あると思うけどね)。表紙(挿画・朝倉め ぐみ 装丁・柳川貴代)の仕上がりもいい。
『バンビーノ』(岡崎祥久 理論社)は、五年生のコウタロウとハルニワのクラスに、二年生程にしかみえないトシオが転校してくるところからスタートする。三人は友達になるのだが、このトシオ、どこか大人びたやつ。物語は三人の日々をダラダラを描いていくのだが、今使った「ダラダラ」は悪い意味ではない。まさにこんな風にして子どもの日々も流れているだろうということなのだ。だから読んでいて少しも退屈しない。トシオの養育者はTJと名乗っているが、母親かどうかはわからない。どころか、トシオの告白によれば、彼は呪いで子どもにされた大人で、TJは恋人だというのだ。彼の物知り具合や振る舞いからもそれはあながち嘘とは言いきれない。とすると、ここでも右肩上がりの成長はどこにもなく、クラインの壷のようになっている。トシオは「子どもを生きている大人」なのか「大人を生きている子ども」なのか、それとも「自分が大人だったような気がしているだけの子ども」(コウタロウ)なのか? 物語はトシオの転校で突如終わるのだが、コウタロウたちによる「トシオとは何か?」の答えは「ただのチビ」。というわけだ。
読書人2000/06
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