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本日(七日)は『FF9』の発売日。例によって朝の7時前に近所のコンビニを経巡る。が、これまでとは違って、店頭に行列は出来ていない。どこも数人が、まるで暇を持て余しているだけかのように群れているだけ。一軒の店に開店早々に入って観察していると、ポツポツとやっては来るものの、すぐに買って慌てて帰る(早くプレイしたい!)わけでなく、ゲーム雑誌を見たりしながら、帰り際についでに買いますといった感じ。つまり、かつての熱気は微塵もない。コケたのか? と思ってレジの向こうを覗くと、予約者のために用意されている商品の数はこれまでより減っているようには見えない。山積み。予約確認のためのレシートの束も相変わらず。だから、たぶん人気はあるのだ。売れはするのだ(これまでの実績からいえば最低三〇〇万本)。ただそこに熱気がないだけで。ソフトの発売日に盛り上り、その行列で初めて顔を合わせた見知らぬ「仲間」とエールを交換するという、ここ十数年来続いてきた、子どもたちの「祝祭」はもう終わったということなのだろうか? 『FF9』自身もまた、これまでのシリーズのオイシイ部分を全部詰めこんでおり、決して出来は悪くはないが 、プレイしていて熱くならないのも事実だ。 さて、児童文学。 『アウトサイダーズ』(スーザン・ヒントン 唐沢則幸:訳 あすなろ書房 1967/2000)が新訳で出た。こちらは帯に仰々しく「全米750万部!」の文字がある。発表されたのは1967年。若者のバイブルとも言われているこの物語は、1983年に、コッポラが映画化したことと連動して、清水真砂子(大和書房)と中田耕治(集英社コバルト文庫)によって訳出されている。従って、60年代のYA作品が、日本では83年に紹介され、そして2000年に新たに再登場したこととなる。 当時17才だったヒントンの『アウトサイダーズ』は、まさに生身の17才が描いたティーンの世界だった(今で言えば宇多ヒカルの作品)。それを16年後の日本でどう訳すかで、清水と中田の競演となったのだが、「ちゃんと」訳した清水訳と、「ナウい」訳を試みた中田のそれは、同じ原作とは思えないほどの違いを見せて、スリリングだったのをよく覚えている。しかし、どちらにせよそれは、例えば映画『ウエストサイド物語』を彷彿とさせる、トンガリながらもナイーブな若者たちの世界であることには変わりなかった。ツンツンしていた。が、 今回、唐沢訳を一読して、「トンガリ」でも「ツンツン」でもなく、極めて自省的な、静謐といってもいい世界がそこにあることに、私は驚いてしまった。 それは単に私が年老いたということなのだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。 一つ指摘できるのは、唐沢訳が、2000年の日本の若者言葉によってなされていること。これは、改めて訳す限り当然だろう。33年前のアメリカのティーンの生身の声が、2000年の日本のそれにトレースされたとき、83年の頃のそれとは全く違った顔をみせる事態。そこが、面白い。 私は、今回の唐沢ヴァージョンで、何度も目頭が熱くなった。2000年訳の『アウトサイダーズ』は、もはや今ではまっすぐには描きようもない(描いたとしたらそれは、ウソになる)「10代」を、67年の作品を2000年語訳にすることで、再提出してくれている。「こんな悩み方もあったんだ」。そんなシンプルな事実を知ることは、今の若者にとり、オプションの一つとして、意味がある。もちろん、「ソッシュ」(中産階級のワルガキ)対「グリーサー」(貧困階級のワルガキ)という簡単過ぎる境界線は、今の日本では破綻しているけれどね。 そうそう、本日は『ハリー・ポッター』第4部が英語圏で発売された日でもあった。初刷500万部とのことである・・・。 |
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