08/2000

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 「大自然のふしぎえほん」シリーズの最新作『ダンスをする魚の なぜなぜなぜ?』(かこさとし 小峰書店)がでた。今回の素材はイトヨ。この絵本は「なぜ」の連鎖で、事実の一つ一つを押さえていく。なわばりをもつのはなぜ? から、巣作りが導き出されそこから、巣を作るのはなぜ?が浮上してくる。そうしてイトヨの生態を詳しく知るわけだが、「なぜ」の連鎖という、何かを知るためのシンプルな方法がおもしろい。事実を着実に押さえていくことのおもしろさとでもいえばいいのか。『みんなあかちゃんだった』(鈴木まもる 小峰書店)も、生まれてから3才までの赤子の日々、すること、あったこと、起こったことを、まるで記録アルバムのようにクリップしていく。『ダンス』が学習絵本でないように、これは育児書ではない。が、物語でもない。物語と現実の相補完的な蜜月が後退している今、こうした作品の活きが良いのは当然か。
 さて、物語。職員室用のコーヒーメーカーを購入しために図書館の本が買えなくなったので、物語を書く宿題が出るのが『悪者は夜やってくる』(マーガレット・マーヒー 幾島幸子:訳 岩波書店)。主人公フォーンビーは、何故かスクゥジー・ムートという名前を思い浮かべる。と、悪者スクゥジーが現れ、彼の物語を書けという。書かれることでスクゥジーは悪者として活躍できるのだ。さっそくノートに向かったフォーンビーは物語を書くことに夢中になる。これで、スクゥジーは満足するはず。が、次の日、彼は怒っている。なんといつのまにかノートは妹ミニーによって書き継がれ、話が変わってしまっていたのだ。その中で活躍するのは、スクゥジーの妹ニーナ。一度書かれてしまった物語を消すことは出来ない。フォーンビーは物語を軌道修正し、ノートを隠す。ところがミニーは自分の日記にその続きを書く。ならばと父親のパソコンを使うフォーンビー。ハードディスクに保存。これで完璧! なのにミニーは、図書館のコンピューターからハッキングし、物語を書き換える・・・。こうして、物語はフォーンビーの現実に侵入してくるだけでなく、作者を変え、メディ アを横断して続いていくこととなる。中間発表でそれを読んだ担任は、「あなたの物語はいったい終わりがどうなるのか、ぜんぜん見当もつかないわ」と興奮し、「特別の許可をあげますから、午前中ずっと物語のつづきを書いていらっしゃい」と続ける。コーヒーメーカーほどの値打ちもなかったはずの物語が、ここで授業以上の地位を得る。物語の力が復活したわけではない。それが、現実に侵入し、作者を変え、特定のメディアに留まっていないからだ。
 このフォーンビーが始めたはずの物語の中にももう一つの物語が用意されている。悪者スクゥジーが泥棒に入った家の住人も兄と妹。妹が作ったコンピューター・ゲームの悪者キャラ、カウント・アスピアが、モニターを飛び出し物語に侵入し、スクゥジーたちを襲う。「世界の物語を支配し、やがては宇宙全体の物語も支配してやる。おれはあらゆる物語の主人公になるんだ」。これほどの物語破壊宣言はないだろう。ここに至ってついにフォーンビーは物語を支配する書き手になる決意を固める。アスピアを無力化するストーリーを思いつき、急ぎ書き上げ、そして、物語を閉じるための最後の言葉を記そうとする。「おわり」と。が、ここでまたも妹に先を越され、その言葉は彼女が書くのだけれど。
 書き上げられた物語は学校から賞賛され、一冊の書物として綴じられ、図書館に収まる。しかし、その物語の中で無力化されたアスピアはどうやらフォーンビーの現実世界に侵入することで復活したらしく、今度はそれを物語にしようと、ミニーと二人モニターに向かうところで『悪者』はとりあえず「おわり」となる。これは『悪者』が書物に収まっているから可能なだけで、モニター上なら、「おわり」とはなれないかもしれないことをほのめかしてもいる。
 『悪者』は「小学4.五年以上」(奥付より)向けのとてもおもしろいメタ小説やね。
読書人