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「ドラクエ7」が発売された。ネット上を探索しているとこの大作への評価はかなり割れている。批判の多くを集約すれば「五年待って、こんなもん?」である。しかし、バトルシステムも描かれる世界も殆ど変化していない事態は、十四年間続いているのであり、五年待とうと六年待とうと同じであると思われる。ライバルのファイナル・ファンタジーが進化しつづけることで今や袋小路に入ったかに見えるのに、ドラクエは抜群の安定感を基に、物語ることに力を注ぐ。シリーズ全体を順を追って眺めれば、たった一人の冒険である1から、仲間探しの2、特定の仕事を身につける3、転職し自分の望むキャラとなる4、結婚する5と、子どもが社会化されていく様を追っていて、6では「マトリックス」に先んじてパラレルワールドでの本当の自分探しを描いてきた。1から5までのある意味お気楽な近代的自我形成のトレースから、6で、それの揺れへの変化。安定度の高い器の中で、ドラクエがいかに時代とリンクしてきたかがわかる。そして、今作。未知の大陸や島や町や村を発見していくRPGは、主人公の成長を追う冒険物語ではあるが、もちろんその未知とは冒険する側にとってのそれ であり、すでにあらかじめそこにある、そこに居る発見される側にとっては、コロニアリズム物語でもある。ドラクエは今回、たった一つの島しかない世界から始めることで、すでにあらかじめそこにあるにもかかわらず発見されてしまう被植民地を物語から排除する。従って、プレーヤーの楽しみの一つである、モンスターとのバトルはそこでは一切ない。そして、主人公たちは、ある手段で様々な過去にワープし、そこでの事件を解決する。と、現代に戻ると、新しい島が出現している。これの繰り返しで、主人公たちは、歴史を修正し、世界を新たに組替えていくこととなる。つまり、旅をし冒険し発見する世界はここ(現代)にはなく、過去を巡るしかないわけだ。これはニューコロニアリズムなのか? それともポストコロニアリズムなのだろうか? さて、児童文学。理子は、神様なんて大嫌い。この前も、ヒマワリがらのワンピースが欲しかったのに、結局またおねえちゃんのおさがりになってしまった。神様なんて不公平だ。そこに、突然神様が現れる。「用はなんじゃ?」。で始まるのが富安陽子の『空へつづく神話』(偕成社)。「用はなんじゃ?」といわれても、招いた覚えもない理子は困る。が、記憶を失い自分の名前も思い出せないこの神様もまた、自分が何故ここにいるのかわからない。こうして二人は現代のこの町を調べ始める。町はかつて大災害にみまわれたことがる。そして今また嵐がこようとしている。神様の出現はそのことと関係あるのか? あるとしたら、彼は災害から町を救うためにつかわされたのか? それとも彼が大災害を引き起こした神であったのか? ここでの理子の冒険は、失われた過去の探索であり、忘れ去られ、誤解された歴史の修正である。そして、明らかになった事実は、単なる過去の出来事の発見ではなく、「今」とつながっていく。 他の動物にとってはいいにおいのするくまは皆に慕われ、良き相談相手ともなっている。けれど、他の人の気持ちを聞かさせるだけで、自分のことは誰もわかってくれない。そこでキツネの作ったにおいの消える薬を飲んだくまは・・・。ゆもとかずみの『くまって、いいにおい』(徳間書店)は、変えることのできないにおいを中心に置くことで、理屈や倫理を越えた「気持」を描きだす。それは「自我」のもっと奥にある彼自身であり、と同時に彼の一番表層にいつも漂うものである。それこそを確かなものだと伝える物語は、あたたかいと同時に、どこかほろ苦くもある。 他に『羽ががはえたら』(ウーリー・オルレブ 母袋夏生:訳 小峰書店)の子ども像のリアルさと、今の言葉で訳された『アーサー王物語』(ジェイムス・ノウルズ:作 金原瑞人:訳 偕成社)が、買い。
週刊読書人2000/09
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