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ニコル・バシャラン&ドミニク・シモネの『ネモの不思議な教科書』(永田千奈:訳 角川春樹事務所)は、交通事故で記憶失ってしまった子どもが、それを取り戻していく過程を読めばそのまま歴史、科学、文化などを学習できる仕掛けになっている書物。従ってそれらをすでに学習し終わっている読者には退屈だといえなくもない。けれど、この子どもはフランス人であるから、彼が取り戻す記憶とはそうしたアイデンティティの再獲得のことでもあり、とすれば、読みにおいて時に感じる違和感は面白い。しかし、それより注意を向けたいのは、ピュア(記憶喪失とは正にタブララサやね)な子ども像。今再ブームの『星の王子さま』の影響下にあることを『ネモ』自身も隠さない。彼のピュアな心に大人達は魅了されてしまう。が、同時に『ネモ』はTV局がドキュメントを撮る条件で世界旅行(で、歴史や文化を学習していくのやね)を提供するといった形で、彼を大人の管理下に置いていること。そして物語の終結部辺りには「まず言いたいのは、ネモ、変わらないでいてくれということだ。
」「君は君らしくいてほしい。そして、君がおとなになっても、自分の中にいる子どもの自分を忘れないで」などの大人の希望が述べられること。ここにあるのは、「記憶を失った子ども」ではなく、記憶を失わせないことにはもはや成立させ得ない、大人のための子ども像なのかもしれない。 フィリップ・プルマンの『ぼく、ネズミだったの!』(西田紀子:訳 ピーター・ベイリー:絵 偕成社)は、シンデレラをベースとしたもの。カボチャの馬車の従者だったネズミが人間の姿のまま取り残され、途方に暮れている。この少年も人間としての記憶はないという意味においてピュアな存在。しかし彼の場合、人間のやり方がわからないので、捕えられあわや命を失いかける。つまり学習させてくれる環境下にないピュアはモンスターと見なされ抹殺されかねないのだ。彼を救うのは、今はオーロラ姫に変身しイギリス皇太子妃の座を射止めたメリー・ジェーン。オーロラ姫という名はだぶん、ディズニーアニメ『眠れる森の美女』から借用しているから、彼女は二重に変身しているわけだ。二人は結局ネズミにもメリー・ジェーンにも戻れず、仮の自分を生きる決心をし、物語は終わる。「変わらないでいてくれ」という大人の欲望など、ここにはない。 ジャクリーヌ・ウィルソンの『おとぎばなしはだいきらい』(稲岡和美:訳 偕成社)は、トレーシー・ビーカー自身が記している「The Story of Tracy Beaker」(原題)なる、「わたしのお話ノート」そのものということなっている。ようするにトレーシー・ビーカーが語るトレーシー・ビーカー。彼女、ママの新しい夫に暴力をふるわれたために今は施設にいて、新しい里親を待つ日々。どうみてもママはトレーシーを捨てたのだが、彼女はそれを受け入れることができない。ママは今、ハリウッドの女優になっていて、忙しすぎるから、会いに来れないとの「物語」を生きてる。しかも彼女は自分が平気で嘘をつくことを認めている。このノートにも嘘を書いていて、それが嘘であることも書きとめる。「あたし。ときどきうそをつくっていったでしょう? でも、そのほうがすっとおもしろくなるじゃない。ほんとうのことなんか書いてどうなるの?」。となると、嘘であるとのこの発言も嘘である可能性、おなじみの自己言及矛盾がここで浮上する。しかし、里親待ちの宙吊り状態(もちろんそれも嘘かもしれない)であるトレーシーにとって、「君は君らしくいてほしい」との大人の欲望は、何の意味も持たないことは明らかだろう。 そこに、左半身に障害がある十六歳の少年の寮生活での色々な悪さを描いた、ベンヤミン・レーブルトの『クレイジー』(平野卿子:訳 文芸春秋社)を置いてみる。これは大人の欲望とはかかわりのない、十六歳の作者による十六歳の物語。そこにある、私は生きるに値するのかという、時代を超えてあってしまう悩みは、「君は君らしくいてほしい」を無効にしてくれる。 |
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