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昨年「子どもが選んだ子どもの本」(鳥越信編、創元社、1500円)というブックリストがでましたが、一読して思わず首をかしげてしまいました。「25年以上の生命を持ちつづけている本をリストアップするというのが唯一無二のモノサシ」とか。 大人の評価を含めず、あくまで客観的にということでしょうが、いったい25年という規定には科学的な根拠はあるのでしょうか?20歳という年齢だけで人間を機械的に成年/未成年に分けることがきわめて疑問なのと同じで、文学を一定期間絶版にならなかったかどうかがで古典/未古典(時が立てば古典に仲間入りする作品が含まれますから非古典ではありません)に区別することにも素直に頷くくとはできません。 このモノサシで残った作品たちは、たしかに名作ぞろいのラインアップです。でも最も新しい作品が1964年出版のもの。そう、前回取り上げた「ひょうたん島」のところでストップしているんです。「子どもの死」とか「環境問題」、あるいは母子家庭、父子家庭、離婚家庭、里子といった新しい家族のあり方を探る試みなど、子どもをめぐる今日的な問題意識が抜け落ちているのです。そして案の定、項目別の解説で目につくのが「明るい笑い」っていう言葉。 このリストを読みながら、ぼくはふと、アンデルセンの「みにくいアヒルの子」のことを思い出していました。60年代はぼくにとって、美しい/醜い、明るい/暗い、成長が早い/遅いという価値の序列をしっかり温存したまま、大きくなれば立派な白鳥になれると信じ込まされた子ども時代でした。でも、今ならはっきりいえます。当時大人に信じ込まされた「明るい未来」は嘘っぱちだった、と。世の中はちっともよくならないし、自分が「白鳥」になれたとも思えません!ですから最近では、のろまはのろまなりの存在価値があるって考える方が、人生をめげず生きていく自信になるんじゃないかと考えるようになりました。 ケティ=ベントの挿絵がすばらしい『チビのハイイロガン』(ハンナ=ヨハンゼン作、ささきたづこ訳、講談社、1100円)は、まさにそういう路線の作品です。産まれるのも、飛び立つのも、びりになり、自分をなさけなく思っているハイイロガンの子が、のろまなおかげで逆に群れを危険から救うことになる話で、筋の展開を偶然に頼っているところはありますが、こういう自信のつけ方があってもいいのではないでしょうか? しつこくブックリストにこだわりますが、第二部でこんな一文に出会いました。 「ひとりひとりの子どもには、おろかな面や、低いものへと流れていく傾向があるとしても、マスとしての子どもはとても賢い存在ということができます」 ぼくは、人類とか民族とか家族とかいう枠組みの網の目からこぼれ落ちた個人の葛藤を描くところに、文学の面白さの一端があると思うのですが、それは児童文学でも例外ではないはずです。それだけに、動物観察記『チャボ物語』(平凡社、1800円)で、個性豊かな動物たちの生体をユーモラスに描き、「種の性格と個の性格」という洞察にいたった絵本作家いわむらかずおに、ぼくは拍車をおくります。いわむらはこう語っています。「どうぶつにはイヌの性格(中略)ムササビの性格というふうに、それぞれの種の性格がある。と同時に、イヌだからみな同じというわけではないし、ムササビはみな同じというわけでもなく、一ぴき一ぴきに個の性格がある。このことは人間もふくめて、地球上でいろいろな生きものたちが、共に生きていくうえで重要な意味をもっている」 おろかならおろかなりの、ひとりひとりの子どもと共に、試行錯誤しながら、でもたくましく生きていきたいものだと思う、そんな読後感でした。(酒寄進一 )
読書人1991/02/11
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