91/03


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 『飛ぶ教室』37号(楡出版、1000円)の特集は、「子どもの本の出版2岩波少年文庫と私たちの時代」でした。絵本の福音館、翻訳の岩波、創作の理論社といわれただけあって、岩波少年文庫は確かにエポックメーカーです。でも、そのエポックを「私たちの時代」と呼ぶことに、ぼくは抵抗があります。この「私たち」とはいったい誰なのでしょう?特集の中で、今江祥智がうまいことをいっています。 「−−−私は敗戦の年に生まれていますから、ちょうど少年文庫と一緒に大人になってきた世代であると思います。/といった落合恵子さんの発言(中略)なんかを読むと、うまいときに生まれはったなあ……と羨ましくなってしまう。/私は少年文庫を、大人になってからしか読めなかった世代、だったからである」
 今江祥智は1932年生まれ、落合恵子は1945年生まれ、13年のズレがこの二つの世代を生み出した訳ですが、もう13年すると1958年生まれのぼくがくるんです。そこで注目してほしいのは、1961年から73年まで、つまりちょうどぼくが子どもの頃、少年文庫は一冊も新刊本を出していなかったという事実です。その代わりぼくがお世話になったのは、講談社と小学館の名作全集。もちろんドリトル先生シリーズやリンドグレーンは少年文庫で読みましたが、名作全集で出会った『宝島』や『ジャングルブック』や『小公子』や『カレワラ』の方がはるかにインパクトがありました。ですから、少数派だけど、子どものとき岩波少年文庫とともに育てなかった世代もいることをお忘れなく!
 そしてぼくの場合、大人になってから70年代以降の少年文庫や、上野瞭の『ちょんまげてまり歌』『日本宝島』に出会い、児童文学が子どものまなざしを武器に現代と斬り結んで一面があることに気づいたのです。日本児童文学史家ではないぼくには、70年代以降の日本児童文学にどんな変化があったか詳述する力はありませんが、第二次世界大戦で同じ戦犯国となったドイツの児童文学の戦後の流れを押さえると、なかなか興味深いものがあります。大人の本との接点を見据えつつ、ドイツの子どもの本の歴史を概観している野村しげるのイツの子どもの本−大人の本のつながり』(白水社、1900 円)が、その点で大変示唆に富んでいます。とくに60年代末の反権威主義児童文学というジャンルを取り上げた章。野村によると、このジャンル自体はプロパガンダ的傾向が強く、急速に衰退しますが、そこで蒔かれた種は、ドイツの児童文学に質的変化を与えたようです。ヘルトリング、パウゼヴァング、コルシュノフ、ネストリンガー(オーストリアの作家ですが)などの作家たちが活躍するのがこの70年代です。ぼくなりにいうと、子どものときにナチズムを体験し、大人社会の矛盾に気づいてしまった人々が活動した時期です。彼らの声は大人が築いた社会、つまり外に向けられました。しかしその傾向も80年代になると、ファンタジー(内面への道)にとってかわられるようです。 たしかに、80年代に発言しはじめる戦争を知らない世代、大人と共に豊かさを享受してしまった戦後世代にとって、大人社会を敵とする図式を踏襲することはできません。かといって内に籠もるのでは、自ずと限界があります。大切なのはたぶん、ズレてしまった内と外にどう折り合いをつけるかということでしょう。そのバランス感覚が、戦後世代に求められているような気がします。ドイツの作家でいうと、ネスト リンガーに近いタッチで、男女や、親子の新しい関係を模索しているキルステン・ボイエ(1950年生まれ)が注目株です。パは専業主夫』w(遠山明子訳、佑学社、1300円)は、父母が役割交代してしまった家庭の女の子が主人公で、内では家庭騒動、外では初恋に悩むワケです。そして「女の子」という社会通念にからめとられそうになりながら、それをすり抜けて、自分というものを見つめはじめる様子がユーモラスに語られ、じつに気持ちのいい作品です。(酒寄進一 )
読書人1991/03/18
テキストファイル化 林さかな