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 今回注目したいのは内田春菊のは月のように』(光文社、全二巻、各800円)と川島誠ののこどもたち』(マガジンハウス、1200円)。どちらも少年の性欲をストレートに描いた作品。 なんでこの二作に注目したかというと、横川寿美子の評論集潮という切札』(JI CC出版局、1550円)を読んで、「現行の日本の児童文学は、その読者である少年が欲情する肉体の持ち主であるということを認めようとしない。その読者である少女が異性から性的視線を浴びることを認めようとしない」という一説に出会ったからなんです。横川は、日本児童文学が少女の初潮を描くことで、「産む性」のすばらしさを強調しながら、肝心の性体験を棚上げにしていることを問題にしているんですが、考えてみれば、少女の初潮に相当する少年の精通を扱った作品というのが、日本児童文学には奥田継夫のものを除くとほとんど皆無に近いんですね。やはりタブーなんでしょうか。でも、少年にとって精通はけっこう重要はファクターのような気がするんです。
 児童文学の枠組みからはずれるかもしれませんが、たとえば渡辺淳一は、終戦直後の青春を回想風に描いた『影絵』で、精通があり自慰を覚えたことで、受身的な性的興奮から能動的な性欲に目覚めていく少年の心の軌跡を浮き彫りにしています。ただ完成した大人の目から、少年期、青年期を大人にいたるリニアな成長の時間として捉えているところがあって、全体のトーンは祭りの後のノスタルジーなんですね。もしぼくが6,70 年代の自分の少年期を回想するとしたら、たぶんそういうリニアな時間は描けないでしょう。佐藤正午の『童貞物語』にでてくる青年たちのように、ぼくは大人になった自分(結果)が見えず、ふらふらしていましたから。 本田和子は少女に「ひらひらの系譜」を見、また横川は、少女たちが自分に欠けている部分を男装の女性キャラクターに投影する傾向があるとして「ヅカヅカの系譜」を強調していますが、そのそねみに倣うと、6,70年代の少年には「ふらふらの系譜」があったんじゃないかと思います。内田春菊の『僕は…』は、その系譜に連なる最新作といえます。同学年の女の子に好かれながら、大人の女を感じさせる女教師にあこがれ、いやらしい夢想にふける困った中学生の話なんですが、閉じた環のようにぐるぐるまわる主人公溝田の性的な夢想には、大人によって用意されたリニアな成長の時間に乗っからない、別の青春の一面があります。
 しかし、80年代の少年の感性はすでに変質しつつあるのかもしれません。川島誠の『夏の…』を読んだとき、そんな気がしてなりませんでした。ある中学生の屈折した内面を描いた小説ですが、その主人公朽木元がこんなことを漏らす場面があります。「迷い出すと、ぼくは自分が何がほしいのかわからなくなる。選択ってことができない」彼もたしかにふらふらしているんDねすが、そのふらふらは、選択肢がありすぎる溝田の場合と違って、選択肢が見いだせないがゆえのふらふらなんですね。
 じゃあ、なんで選択肢が見いだせないのかというと、彼は片目を失明していて、眼差しに遠近感がないんです。そこに手を伸ばそうとしても、距離がはかれない。それは心の眼差しにもいえることで、彼は暮らすの一番後ろの席を陣取り、「ここのいい点は、クラスのすべてが見渡せること。そして、ひとからは見られない。透明人間の席」とうそぶくのです。青春に燃えることをよしとせず、一歩さがった位置にたっているんですね。彼の場合、双眼鏡で近くの女子高生の部屋を覗き見して自慰にふけるというように、その眼差しは、自分の関心を全校生徒の関心にすりかえる生徒会長のズルさや、自分の居場所が見いだせない劣等生の寂しさを見抜く感性にも通じています。青春まっただなかで、ややもすると近視眼的になりやすい他の青少年の一歩先を見ているあたり、はっきりいって脱帽ものです。(酒寄進一 )
読書人1991/04/15
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