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 『海外児童文学通信』(ぬぷん児童図書出版)の一三号で、西村醇子の評論「アン・ファインは毒りんごの味?」を読んだぼくは、「人問心理を描くことにかけても、構成力や表現力の巧みさにおいても、並々ならぬ才能をもつ」というアン・ファインにとっても興味をもったのでした。そして夕イミングよく、その評論で取り上げられていた作品のひとつ『ぎょろ目のジェラルド』(岡本浜江訳、講談社、1300円)が出版されました。
 ところが、一読してなんとももどかしい気持ちを味わったのです。誤解を招かないように断わっておきますが、つまらなかったわけではありません。離婚した母親に新しい恋人ができたときの語り手キティの複雑な心境。同じ悩みをかかえた級友に、そのキティが事のてんまつを語るという聞き手のカタルシスを狙った構成。たとえ意見が違っても、人格を否定することなく仲良くできるということを、反核運動をめぐって反目する母親とその恋人を通して納得させてしまう表現の巧みさ。どれをとっても、なかなかのものです。
 ところが個人的にいろいろひっかかるんですよ。反核運動にナイーブに関わるキティの母親、反核運動をナンセンスと考え、能率第一主義の恋人ジェラルド、そして物語の後半でやけに物わかりよくジェラルドに打ち解けるキティ。もどかしい気持ちをかかえなからも、ぼくは途中で投げ出さずに読み通したわけです。今にして思えば、結局ぼくもアン・ファインの毒気にあてられたのでしょう。アン・ファインの毒には、どうも意見を異にする人間を除外せず、むしろ吸収するしたたかさがあるようです。ちょうどキティの母親とジェラルドが、意見を対立させながら、それでも互いの人格を認めあったように。
 ところで、『ぎよろ目』のエピローグにとても気になる一文がありました。リューぺイという先生の言葉で、「人生は長ったらしくみえっぱりな仕事です。物語や本が助けになります。あるときは人生そのものに役だち、あるときは休息に役だちます。最高によい本は、その両方に役だちます」というもの。ぼくなりに言い換えると、物語や本には、「えっ、うそ、ほんと−?」っていう末知の体験(人生の新たな可能性)がつまっていたり、「そう、そう、そうなんだよね」っていう既知のものを代弁してくれる面(人生に疲れた心を癒すもの)があるってこと。その両方のバランスがいいと、最高にうれしい読書体験になるし、バランスが悪いと、「え−、こんなのついていけない」とか、「なにをいまさら」なんてリアクションがくるわけです。
 『ぎよろ目:…』にも、たしかにそういうバランスのよさがありますが、ここでもう一冊、掛け値なしにハランスのいい作品を紹介しておきましよう。花形みつるゴジラが出そうな夕焼けだった』 (河出書房新社、1100円)がその一冊。小六の少年シュンを語り手に、夏の体験合宿に集まった子どもたちが破壊的なパワーを発揮して次々事件を起こす話で、「えっ、うそ、ほんとー?」の連続。この騒動の中心になるのが、桜谷原住民を名乗るシュンと九人の仲間たち。その彼らがゴジラと呼ばれるんですね。
 でも、子どもたちのアナーキーなエネルギーだけをとってゴジラに例えているわけじゃないんです。ゴジラって、水爆実験で目覚めた核の申し子でしよ。それに川本三郎がどこかで、海から現われて暴れまわるゴジラに太平洋戦争で海の藻屑となった将兵の怨念を読みとっていたけど、そういう「つらさ」があるんですよね、ゴジラのあの破壊力の背後には。そしてシュンたちも、家族の崩壊とか子どもの管理といった「つらい」ものを抱え込んでいるんです。そういう「つらさ」を逆照射したようなエネルギーなんですよ、彼らの原動力は。底振けの明るさでは決してないんです。だからぼくは、彼らの心情に「そう、そう、そうなんだよね」とうなずいてしまったしだいです。(酒寄進一
読書人1991/05/20