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「童話という物語は、子供に話して聴かせる形態を取ったひどく露骨な通過儀礼のお話です。お話としてはひどく強引でお粗末なものもあります。差別ははびこっているし、予盾に満ち満ちているし、無理矢理教訓めいたものを組み込んでみたりもしています」 そういったのは、とある大学の老教授でした。さて、世の児童文学作家の方々はこれにどんなご意見をお持ちになるでしよう。賛同? それとも反論? いちおう意見をまとめておいてください。まとまりましたか? じゃあ、先にすすみます。 今回は、この教授の弁を聞いた『王様の耳』 (竹野雅人著、福武書店)の主人公「僕」の話をします。この「僕」は、自分の未来が聞こえてしまうという奇妙な少年(中学生)の家庭教師をしながら、就職活動に出遅れしまった自分に苛立っています。そして大学では卒論の代わりに創作童話を作ろうとしていて、広い意味で児童文学作家の卵という一面ももっています。 まず面白いのが、この奇妙な少年についての「僕」の分析。「中学に進んで高校に進んで大学に進んで会社に入って、その後ずっと会社で働いて……。何だかひどく詰まらない双六ゲーム盤でサイコロを振って駒を進めていくようなもので。でもそのサイコロの目はいつも決まって小さな数字で周りの人たちと余り代わり映えがしない。……そのために、飛び抜けたレヴェル・アップを憧れるようになっているのかもしれません。……彼の言うチカラは、通過儀礼の喪失した現在声の、自らねつ造しなくてぱならない通過儀礼なのでしょう」 「僕」はこの滑稽な耳をもつ少年との関係をロバの耳を持つ王様とそれを知ってしまう床屋に見立てて、あたかもそういう通過儀礼とは無関係な傍観者であるかのように安全な場にいつづけます。ところがその少年は、期未試験を受験しないという予言を最後に、未来がわからなくなってしまう。そして予言に合わせて、本当に白紙答案をだしてしまうのです。作者の言葉を借りれば、「既成の、見え過ぎるお話に沿って進むことから脱却して自分だけのお話を強引に突き進もうとする」わけです。 その頃「僕」の就職活動もおかしなことになってるんですね。取柄のない「僕」は会社の面接で志望理由に合わせて、自己PRというお話を必死につくりあげるわけですが、一向に内定の通知がこない。ところがいいかげんな気持ちで面接を受けた中堅会社からはあっけなく内定をもらってしまいます。入社試験も「どんな答えを書かれても全く結構です」というコメントつき。「自分の結果を見るために何度となく試験をし、その結果で僕の今までの進む道の決定がなされてきた」、そういう「僕」はここで肩すかしをくいます. そして思うんですね。「既成のお話の用意されているシナリオを一つ一つこなしてきただけで、それに幾らか抵抗していたような僕は、サイコロを実は振らされていたのであって、おまけに見えていた『上がり』というものが果てし無く呆気ないものときていた」と。 そのとき「僕」は、見えてしまうものに対してあがいている自分は例の少年と同じじゃないかって気づくんです。その少年だけでなく自らも通過儀礼という社会システムにまきこまれているという自覚。それに気づいてしまった「僕」はもう予定調和的で通過儀礼的な成長物語に単純には乗っていけないことでしょう。さて、それで児童文学作家ですが、はたしてこの「僕」のように自分が子どもと同じ呪縛の中にいると意識している作家はどれくらいいるのでしょうか。これは自戒の念を込めていうんですが、今月読んだ中にそういう意識を感じさせる作品はみつかりませんでした.でもこの視点を見失うとき、ぼくらはただの傍観者になり、安易に「露骨な通過儀礼の物語」を語ってしまう危険にさらされるような気がするのですが。 すべての児童文学作家に『王様の耳』を勧めます。(酒寄進一)
読書人 1991/08/12
テキストファイル化 ひこ・田中
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