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中島梓の最新評論『コミュ二ケーション不全症候群』(筑摩奮房、一五○○円)を通読して、ふと八年前に同じ作者が『べストセラーの構造』 (講談社)で使った「孤独な群衆」という言葉を思い出した。群衆というのは本来、人々に一体感を味わわせるものだ。それなのに孤独だというのは、もちろんマスメディアに翻弄されながら、自己を見失ってしまった現代人を指してのことだ。 『コミュニケーション……』では、この問題をお夕クや、ダイエットに走る少女たちの事例を引いて掘り下げながら、「孤独な群衆」から本当の自分自身に戻る道を探る処方箋まで書いている。 ま、その処方箋はみなさん個々に読んでいただくとして、ここではそれをヒントに児童文字とその周辺を眺めてみようと思う。最近の作品でいうと、講談社児童文学新人賞を受賞した林多加志の『ウソつきのススメ』(講談社二二○○円) とこなみ詔子のマンガ『コインロッカーのネジ』@(新書館、四九○円)がうまい具合いに対になっている。 『ウソつき』では、小五の主人公といい、その家族といい、また転校してきた同級生の女の子といい、みんながいろんなウソをつく。でもそのウソは相手に対する思いやりだったり、自分に残された最後の心の砦を守るやむにやまれぬものだったりする。ウソは環境の変化にうまく対応できない人々のささやかな緩衝地帯、癒しの場なのだ。中島梓は、現代人はテリトリーを喪失し、正常な距離感覚を失っているとしているが、ひよっとしたらウソという芸は正常な距離感覚のバロメー夕ーなのかもしれない。柳田国男が、ウソの芸を『不幸なる芸術』と呼んで、社会から排斥されるのを借しんだのは六○年も前だが、『ウソつき……』はそんなウソの復権を果たしている。 だがもちろん、ウソで塗りかためただけで現実を生きていくことはできない。『コインロッカー……』は孤独に苦しみ、自分の居場所を見失った人々を浮き彫りにした連作で、コインロッカーから生まれたという正体不明の少年ネジは、人々の心の中にストレートに入り込むことで人の孤独な心を癒そうとする。第一話は少年が同居することになる八坂弘という青年との出会いを描いている。この青年、じつは手首に自殺未遂の傷跡がある。しょっぱなで、この傷を見て見ぬふりをする会社のOLに対して、青年は「他人の傷に触れてその人が偽つくのを見て見ぬふりで防ぐ。そうやって実は自分が傷つくのを防いでいる。君は、やさしくて賢い人だね。」と独白する。だが少年ネジは違った。腕の傷に気づくとそこに唇をつけス卜レートに尋ねる。「痛かった?……いっばい血がでた?」と。そのとき青年は独白する。「ずっと誰かにきかれるのを待ってた。」なんのてらいもない一言が、凍りついた孤独な心を溶かすこともあるのだ。 さて最後にもう一冊、このふたつの作品の中間に位置するような、とってもバランスのいい幼年向けの物語を紹介しておこう。いとうひろしの『ごきげんなすてご』(福武書店、三一○○円)がそれ。弟ができて、親にかまってもらえなくなった主人公の女の子がすてごを演じる話で、新しく見つけた住処が夕ンボール箱。そこへ、やはり孤独ないぬや、ねこや、かめが仲間入りして、夕ンボール箱はさながら孤独なものたちのサンクチュアリとなる。だがじきに、かめとねこは飼い主を見つけ、イヌも元の飼い主のもとへ。女の子が、誰もひろってくれないので落ち込んでいると、「おや、こんなところにすてごがいるよ」といって、立ち止まった赤ん坊づれの夫婦がいた。もちろん女の子のパパとママ。「おじょうさん、おじょうさん。わたしたちは、このおさるのおねえさんになってくれるこをさがしています。もしよかったら、うちのこになってくれませんか」もちろん女の子はすてごをやめて、「おさるのおねえさんになってあげた」のだった。こんなジョークのもてる心のゆとりが欲しいと、つくづく 思った。 (酒寄進一)
読書人 91/10/14
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