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今月は月刊「子ども」十二月号(クレヨンハウス、 2080円)の特集「学校五日制あなたは賛成ですか ?反対ですか?」にいろいろ啓発された。学校教育の行き詰まりが叫ばれてひさしい。学校五日制になることで、子どもに「ゆとり」ができるとすれば、それにこしたことはないけれど、結局、競争社会が子どもに「ゆとり」をもたせてくれないんじゃないかと、ぼくなんかはあきらめ半分に思ってしまう。また仮に現在の社会システムからドロップアウトしても、今度はそうした子どもの受け皿になるべき地域社会がうまく機能しないことの多い今、やっぱ子どもは救われない。なんだか、今の子どもはがんじがらめだ。その中を器用に生きていける子どももいるだろう。だけどそんな器用な子どもばかりのはずはない。ぼくは、器用でない子どもたちにいいたい。まあ、こんな今だけど、生きていくっきゃないんだから、したたかにたくましく生きようよ、ってネ。
だから今回はそんな子どもたちにエールを送る意味で二冊の長編小説を紹介したい。ひとつはグルジア人作家ダール・ドゥムバ -ゼの陽が見える』(喜田美樹訳、佑学社、一四○○円)。舞台は第二次大戦下のグルジアの小さな村。孤児のソソイヤをはじめとする村人たちの日々の暮らしが描かれている。グルジアの民は長い間ロシアの圧政下にしかれてきた。「グルジア人は……反骨精神が強く誇り高い人々です。苦しければ苦しいほどユーモアと機知で生活を潤し、笑いながら助けあって苦しみを乗り越えるのです」と訳者は解説しているが、たしかにたんたんとしたエピソードの中に、そういう骨太なたくましさが感じられる。
ただこの作品を通読して気になったことがひとつある。グルジアの村人たちは、自分たちの村が危険にさらされたわけでもないのに、銃をとり、ソ連のために命をかけたことだ。ナチスという共通の敵を外側にもつことでソ連(中央政府)対グルジアという内側の対立がうやむやになっている。グルジア人は自分たちの敵の敵と闘う。これはけっこう複雑だ。複雑ついでにいうと、ソ連軍から脱走レ、村人からは村八分同然の目にあうコルホーズの元班長ダチコという登場人物がいる。行き場をなくしたこの男を見て、今の日本の子どもたちは何を思うだろう。なんだか、今の日本の子どもにも、一所懸命やってたのに気づいたら自分の居場所がなかった、なんていう子がいるような気がするんだけど……。
さてもうひとつの作品、フォレス卜・カー夕ーの自伝的な作品リ卜ル・卜リ -』(和田雪男訳、めるくまーる、一八五四円)は、山奥で祖父母と一緒に暮らすインディアンの少年リトル・トリーの物語だ。少年は祖父母との生活を通して、インディアンとして生きる知恵を学んでいく。核心は、人には「からだの心」 (ボディ・マインド)と「霊の心」(スピリット・マインド)があると、祖母がリトル・トリーに語るくだりだろう。「霊の心ってものはね、ちようど筋肉みたいで、使えば使うほど大きく強くなっていくんだ。どうやって使うかっていうと、ものごとをきちんと理解するのに使うのよ。それしかないの。からだの心の思うままになって、欲深になったりしないこと。そうすれば、ものごとがよーく理解できるようになる。努力すればするほど、理解は深くなっていくんだよ」
「からだの心」は自然を征服し利用しようとするが、「霊の心」は自然を理解し共に生きようとする。敵を作るのではなく、仲間を殖やす「霊の心」は、人生にあくせくせず、ふと立ち止まり人の声に耳を傾ける「ゆとり」に通じると思う。この作品では、インディアンの迫害の歴史が語られ、リトル・トリーも現実に「白人から虐待される。そして迎える祖父母の死、愛犬の死。少年には乗り越えるべき悲しみや憎しみがいっばいだ。なのにあくまで明るくたくまレい。「霊の心」の力ゆえだろうか。さわやかな風に吹かれたような、すがすがしい読後感だった。 (酒寄進一)
読書人 1991/12/16