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 はじめに昨年の年末回顧を少々変更したい。昨年の後半、日本の創作児童文学は息切れしていると書いたけど、十二月にはいって、個人的に期侍している寮美千子荻原規子の新作があいついで出版されたのだ。
 でも読後感は、なかなか複雑だった。二人は、まったく違ったアプローチで、児童文学の明日をみつめようとした気がする。でもそのアプローチの差が明暗をわけたようだ。寮のラジオス夕ー・レス卜ラン』(パロル舎、一五○○円)は、輪廻転生に似た主人公の幻想体験を通して、地球の生成から、人類によるその滅亡までを描き出そうとした野心作だ。「ぼくが、ひとかけらの流れ星になってこの惑星にやってきてから長い長い時間、ぼくは、惑星の上のあらゆるものたちだった。そう思うと、ぼくのなかの骨が、血が、心臓が、脳が、ぼくをつくっている、ありとあらゆる物質が、まるでいっぺんに、かつて自分だったものたちのことを夢見だしたんだ。ぼくは、いっぺんに恐竜で、魚で、蝉で、石で、砂で、水で、風で、草で、無数のものだった。ぼくの心は、その数えきれない一瞬であふれかえった」あふれるように豊かなイメージがある。でもどこか宮沢賢冶をひきずっている感じがする。それにその豊かなイメージから浮かび上がる地球の歴史が、現在通用している理論をなぞっただけのものなので、途中でどうも筋書きが見えてしまう。既成の理論をくつがえすイ メ-ジの広がりがあればと残念がるのは、ないものねだりだろうか。
 寮が個を通して全体を描こうとしたのに対して、荻原は鳥異伝』(福武書店、二八○○円)で徹底して個を描いた。この作品は前作『空色勾玉』の続編であり、ヤマト夕ケル伝説を下敷にした六百ぺージを超す大作だ。前作では物語をひっぱる登場人物が前半の狭也から後半の稚羽矢へと移行してしまって落ち着かない部分があったけど、今回は物語の構成も展開もじつにうまい。「闇」の一族の血をひく遠子と「輝」の血をひく小倶那は、双子のようにして青ち、決裂し、そして再会する。時代の大きなうねりのなかで揺れ動く、そんな二人の心の軌跡がじつに生き生きと描かれている。しかも遠子は台風の目のような激しい性格、小倶那は根っから争いや我を通すのが嫌いなたち。正反対な性格のふたりは、いったんは死や忘却という安易な逃げをうとうとするが、やがてお互いの違う部分を求めあい、自分なりに精一杯生きることを選ぶ。そんなところに、ぼくはいたく感動してしまった。
 無数の個の共通項を描きだそうとした寮と、互いを補いあう異なる個性を描こうとした荻原。ぼくは後者に軍配をあげてしまったけど、これはもちろん好みの問題だし、どちらもつきつめればいくらでも壮大な物語がうまれるテーマではある。ふたりの今後に断然期待したい!
 ところで今回は、ほかにもぜひ紹介したい作品がある。C・W・二コルの極力ラスの物語』(森洋子訳、講談社、二二○○円) と岩瀬成子の『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』 (PHP研究所、 二○○円)だ。『北極カラスの物語』は、片足を失った小ギツネと孤独なオオカミの不思議な友清をさまさまな動物たちの独白を通して描いた物語で、北極という極限の地で異なる個性が共に生き抜いていく姿がじんじん伝わってこる。 『「うそじゃないよ」…』は、無ロで、人とまじわらない少女るいと、やたらに饒舌な転校生谷川くんが互いに心をひかれる様子を描いた作品。谷川くんは親に捨てられ、妹とこっそり暮らす一種のホームレス。彼の饒舌はじつは孤独の裏返しだったのだ。そしてふたりをつなぐ見えない糸は「ここにいるのに、ここじゃないっていう気持ち」。これもまた、ぼくらにとっては生きづらい極地の別の姿であるかもしれない。そんな境遇での異なる個性の出会い。ぼくは、この二作品に『白鳥異伝』と似た匂いをかぎとっていた。 (酒寄進一)
読書人1992/02/17