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いま、清水真砂子の評論集『子どもの本のまなざし』 (JICC出版局、二ハ五○円)の全体の半分近くをしめる第一章カニグズバ- グ論を読み終えたところだ。作家の創作の軌跡を精繊に跡づけながら、作品を土俵に作者と四つに組んだ批評に、ぼくは血がさわぐのを覚えた。とにかく清水真砂子の読みはするどい。それは、見えているものを読みとる正確さではなくて、ときには作者自身にも見えていない何かを、そして作者が内に抱えている限界までも読み解くするどさだ。キーワードは、カッコつきの「物語」といえそうだ。清水真砂子はこう書いている。 「アメリカの、カニグズバーグが暮らす社会の人々も、私たちと同じように、いくつもの『物語』にとりかこまれ、それにしばられているのだ。少なくともカニグズバーグの目に人々はそのように映っていた。そして、人々はしばられていることさえ意識せずに同じ『物語』をまたぞろ別の人々にむけて、子どもにむけて、語っている、と」 ぼくはこの一節を読んだとき、両親がぼくに与えていた「物語」のことをふと思いだしていた。それは「一人前になれば…:」というもので、たとえば、ぼくが「マグマ大使」を見ていると、父は一人前になれば、何をやってもいいんだから、それまでは勉強しろ」といって、よくテレビのスイッチをきった。 「大人になってからじゃダメなんだ。今見たいんだ」と反論しても、父は一向にうけつけず、ついにはテレビのコードをハサミで切ってしまった。ぼく(=子ども)のためにといって、自分の楽しみまで放棄する、この禁欲的なまでの「物語」。これもまた、当時のぼくをしばっていたもうひとつの「物語」だった。ぼくは今でもあのときの苛立ちをひきずっているのだろうか。十年後の自分を夢みるまえに、どうしても今ここにいる自分が気になってしまう。 既成の「物語」によりかかっていると、生きるのが楽なことは確か。でも、いったんその「物語」のつじつまがあわなくなったときが大変だ。中島梓が『コミュニケ-ション不全症候群』 (筑摩書房、一五○○円)でいっているじゃないか。一戸建てをもつのが一人前という物語が成立しなくなった今、畳一畳でも、その自分の居場所で生き抜くしかない、と。これは、清水真砂子がカニグズバーグ論でしばしば使っている「現実を生きのびるための処方箋」という言葉に通じるものだろう。 こういう言葉に血がさわぐぼくとしては今、西田俊也の小説『ギラギラ』、(マガジンハウス、三一○○円) がとても気になる存在だ。「社宅に住んでいるときは 何もいわれなかった。でも、ちよっと成長すると、一緒に成長しないものがいることに耐えられないんや。お父さんがこんなにがんばっているのに、おまえは何や ? といつも怒られる。家族は運命共同体と思ってる。誕生日も星座も名前の字画も違うもの同士や。調子のええときもあれば悪いときもあって当然や。お父は家族を残してエラくなり過ぎたんや」 軽妙な関西弁で語る主人公の「オレ」は、外から押しつけられる「物語」に敏感に反応する高校三年生だ。『ギラギラ』は、その「オレ」が十年後の自分に向けて今の自分を書きつづった手紙形式の小説だ。「オレ」は、なんでそんなものを書くのか、その理由をこう語っている。 「二十年後のオレは今のオレのことちゃんと覚えてる自信ないし、三十年後はもっと危ないし、それやったら十年後のオレに伝えといたら、そのあと十年も大丈夫やろ。オレ、今の自分の気持ち、忘れて欲しくないねん。……忘れないと思うけど、人問やっばり外の圧力に弱いからな」 「外の圧力」は、もちろん「物語」に言い換えられるだろう。この「オレ」なら大丈夫、現実をしっかり生き抜けそうだ。(酒寄進一)
読書人1992/03/16
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