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 武田鉄矢原作おーい竜馬』のアニメがNHKではじまった。ぼくはその第一回をみて、男まさりの姉と弱虫な弟(=竜馬)という組合せに、なんともいえない気分をあじわった。
狙いは竜馬の成長物語だから、弱虫竜馬というレッテルはス卜ーリーづくりの上で、いいアクセントになると思う。でもそれをさらに際だたせるために男まさりの姉を設定するところに、なにか社会通念にはまってるものを感じないではいられなかった。
弱虫を別の言葉でいえぱ、「女々しい」だ。だから『おーい竜馬』で描かれた姉弟の関係は、いわゆるジェンダーの視点からみれば、「男」−「女」の関係というメ夕ファーに還元できてしまう。もちろん、自分が果たせないものを弟に投影する姉、姉の分身として生かされようとする弟、と多少屈折してるけど。事実として、こういう状況は今でもあるかもしれない。だけど、それを描くことが、物語づくりの方便でしかなくて、社会通念への批判にならないとすれば、もうこういう物語はやめてよって気持ちが、ぼくのなかにはある。じゃあ、そういう方便を使わないとしたら何ができるか、そういうことを考えるとき、まず頭に浮かぶのは佐野洋子のわたしが妹だったとき』 (偕成社)だ。早くに死に別れたふたつちがい兄と遊んだ幼い頃の思い出を物語にした自伝的な作品だが、作者は「あとがき」でこんなことを書いている。
「わたしは兄と自分を区別できなかったのかもしれません。……わたしは兄が死ぬことを考えたことはありませんでした。いつかわたしたちは大人になって死ぬけれど、大人になるときなど考えられないほど先のことで、そんな先のことをわたしは考えなかったのです。……兄とわたしが過ごした幼年時代を共になつかしむ相手を失ってしまったために、小さな兄はいつまでもわたしの中で小さなまま生き続けています」
小さなままの兄、というのはスゴイ。普通なら兄もまた成長してやがて「男」になるはずなのに、「わたし」の中の兄は「男」にならず未分化のままなのだ。だけど、こういう物語づくりは佐野洋子という個としての体験があってはじめて生まれたもので、これを児童文学の典型としてプログラム化することはむずかしいだろう。
村中季衣は、「児童文学とフェミ二ズム」という特集を組んだ雑誌「日本児童文学」五月号で、この「わたしが妹だったとき」を取り上げて、フェミニズムという認識パ夕ーン以前の「『わたし』の一点=「『女』であるとか『女ゆえ』とは、はるかに遠く、『子ども』であるとか『子どもゆえ』とも遠く遠く、ただ透明に、存在の孤独をかかえこむ、宇宙の孤児のような魂」を感じることを強調している。こういうス夕ンスを取りたくなる気持ちはわからないではない。だけどどっちかというと、同じ特集で「子どもと性の関係を認めないという考え方は、事実に反する虚偽意識だといわねぱならない。わたしは、むしろ、『性』抜きの状態こそが人間にとってのユートピア(理想郷)だとみなす願望をもった文学を児童文学と命名する、と定義の仕方を一八○度転倒させてしまったら、いっそすっきりするかもしれないと皮肉な気分になる」と論じている石井直人の方に、ぼくは親近感をおぼえてしまう。
ぼくは佐野洋子も読みたいけど、子どもと「性」(ジェンター、セックスの両方の意味で)の関係を「成長」の一段階としてではなく、そのものズバリのものとして真正面から描いている作品も読みたい。そして今、そういう作品の書き手として注目すべき作家がいるとしたら、たぶん川島誠だろう。前作『夏のこどもたち』の主人公もよかったけど、新作800』 (マガジンハウス、三一○○円)に登場するふたりの少年にはすごいオーラが感じられる。八百メートル走でライバルとなったふたりの対照的な個性のぶつかりのなかで、これまたさまさまな少女たちの姿が浮かび上がり、またに八百メー卜ルを一気に走り抜けるような痛快な読書が楽しめる作品だ。 (酒寄進一)
読書人1992/05/18