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 清水真砂子の講演集福の書き方」 (JICC出版局、一二○○円)を読んで、なんかへんだなという印象をぬぐえなかった。前作「子どもの本のまなざし」 (JICC出版局、一六五○円)では、カニグズバーグ、ピアス、ハミルトンの作品に密着しながら、今を生きるためにとても大切なものを読みといている。「幸福の書き方」は、そうした「読み」の上にたって展開された著者一流の人生論だ。
「『戦争を生きのびる』より『平和を生きのびる』ほうがもっと大変かもしれない」という言葉に、「平和な時代」に四苦八苦した (と思ってる)ぼくは、すごく共感したし、学校や社会の既成の「物語」をこわす物語を子どもの本に求めているところも、まったく異論がない。ただ、清水真砂子流にいうと、ぼくの「生理」が、居心地悪いよと訴えていた。
著者は、さまざまな二分法を展開している。たとえば「解体に向かっていく個にずっとつきそう」小説/ 「もっとトー夕ルに何かをつかもうとする」物語。作者の児童文学像は、物語のほうにウェイトが置かれていて、その先には「個として生きること/類の中で生きること」というもうひとつ別の二分法がある。でも、その次の「教える/伝える」という二分法につまづいてしまった。「教える」のは個人の作業で、「伝える」というのは、もっと歴史の流れにかかわる作業らしい。著者は「伝える」という作業についてこういっている。「個人は、歴史の流れ、時間の流れの中のあぶくのひとつにすきない。しかし、そのあぶくは、それがなければ次へ伝わらないわけですから、きわめて重要な意味を持つ」
それはよくわかるんだけど、行為の主体から子どもがぬけおちているところが、どうも気になる。小説や物語を「読む」のも「生きる」のも、主体は大人と子どもの両方だ。でも「教える/伝える」の主体に、子どもはなれないんじゃないだろうか。子どもにとって、それは「教えられる/ 伝えられる」であって、子どもは受身でしかない。子どもが能動的になるためには、もっと別なキーワードが必要だろう。たとえば「気づく」とか。「つまづく」といってもいい。大人が安易に首をつっこむべきでない、その子だけの、きわめてプライべートな体験世界だ。
「気づく」というテーマで、ちょうどもってこいの作品を最近読んだ。蔦森樹のそして、ぼくは、おとこになった」 (マガジンハウス、一五○○円)。一人称で語られる主人公リョウの体験は、じつに過激な「気づき」の連続だ。
ゼンソクの発作に苦しみ、ひ弱なリョウは、「男らしく」という親の期侍に答えられない自分に負目を感じている。リョウは、親の「教え」に背き、家をでる。そして気づく。自分の中の「女」の部分、だれかに抱かれたいという欲求に。その欲求のまま、リョウは年上の女性やかつてのクラスメイト織江と関係をもってしまう。しかし、それはまだ受身な欲求で、やがて別のことに気づくことになる。父親を亡くした織江を抱きとめようと、能動的になったリョウが、考えたことは、ちゃんとした職について、ちゃんとした家庭をつこることだった。だが織江との仲が破綻したとき、リョウは気づく。 「ちゃんとしなさい」と母親が□癖のようにいうのを嫌っていたのに、いつのまにか自分で自分に同じことをいっていたことに。リョウは、バイクで夜の高速道路をつっばしり、生まれ変わったような気持ちを抱く。彼の「前には誰もいなかった。バックミラーを見ると、路面に叩きつけられた白煙で、後ろにも誰も見えなかった」。ぼくは、いとうせいこうのラップ「噂だけの世紀末」の最後の言葉を思い出す。 「絶対の孤独」。
リョウは、その先もピンクサロンの女性と出会ったり、ホモの男に買われたりと、かなり過激な体験をしながら、自分のありのままの姿を見つけていく。 「教えられる」のでもなく「伝えられる」のでもなく、自分を愛することができるのは、誰でもない、自分自身であることにリョウは「気づく」のだ。さて、清水真砂子は、この作品どう評価するだろう? いや、それより、主人公リョウが、清水真砂子の講演を聞いていたら、どんな感想を抱くだろう? 知りたいのはそこだ。 (酒寄進一)
読書人1992/07/20