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 ジャンク・ライフ」主婦と生活社、一一○○円) と女A」 (福武書店、一五○○円)。西田俊也の新作を二冊たてつづけに読んだ。前作「ギラギラ」(マガジンハウス、三一○○円) で見せた、関西弁の痛快な文体は健在だし、キャラクターたちも型破りで気持ちがいい。
 「ジャンク・ライフ」は、私立中学受験に失敗し、公立でイジメを受けている少年の話で、そのいじめられ方がかなりすごい。なんせクソを顔にぬりたてられるのだから。でも、どんなにイジメられても、登校拒否をするでもなく、また親や教師に泣きつこわけでもなく、もくもくと学校に通っている。そして学校や世の中がどんなクズに見えても、「ここはオレらにとっては墓場でもなんでもない、逃げることの出来へん現実や」と開き直る。「イジメはいけないこと、みんな仲良くしよう」などという大人の側のお仕書せのヒューマニズムなどかけらもない。それどころか、ワーカホリックで狂った主人公の父親を描くことで、あっさり大人の理性のメッキをはがしている
 一方、高校受験に失敗して、冗談でうけた女子高に合格し、そのまま女子高生になりすましてしまう少年の物語「少女A」もけっこうとんでもない展開をする。男が外側からながめているときの幻想の女子高と、変装して目の当たりにする現実の女子高のズレや、女に扮してはじめて男たちのいやらしい視線を実感するあたりがおもしろいけど、やはり極めつけは、主人公を男だとみやぷった女生徒との飽くことなきセックスライフだろう。ここでも、「セックスは愛の証」みたいなヒューマニズムのかけ声はかけらもない。女生徒は「セックスはスポーツ」といいきるくらいだ。あとがきで、一番書きたかったのは、……十五歳の体に生々しくセットされて爆発寸前の状態でドクドクと動きまわっているノーコントロールな性的欲求だった。打算も計画も理性もはね飛ばして突き進むキョーレツなセックスパワーだった」と明かしているけど、たしかにその通りの作品に仕上がっている。
 同じあとがきで作者は、「僕は中学から高校をひとつのトンネルだと思っている」ともいっている。高校卒業というトンネルの出口にさしかかった少年が、そのときの思いをなんとか書きとめようと、一○年後の自分に手紙を書くという設定の「ギラギラ」には、今まさに通り抜けようとしているトンネルへのこだわりがあった。それに対して、「ジャンク・ライフ」はトンネルのとばロでつまづく話で、「少女A」はトンネルの中でつまづく話だ。とにかく「ギラギラ」の主人公とちがって、トンネルの出ロが見えないぶん、主人公たちは闇雲だ。どんなにつまづいてころんでも、ただじゃ起きない。そんなところが、そういえばこんな闇雲な時期があったよな、とトンネルを通り過ぎてしまったぼこなんか、なつかしく思うし、今まさにトンネルの中で悪戦苦闘している少年たちにも共感を呼ぶだろう。
 「少女A」の主人公は、女子高に通っていることがバレたとき、母親にこういう。 「……母さん、オレはさぼっていたわけじゃないよ。母さんが自分のセーラー服には思い出がいっぱいつまってるっていったように、オレのセーラー服にもかけがえのない思い出がいっぱいつまっているさ見たいものも見たし、見たくないものも見たし、面倒なもめごともいろいろとあったし、ひとにも迷惑だってかけたさ。でもみんながみんな無駄だったわけじゃない。オレにとってはまともに高校に行くよりもとても大切で貴重な経験だったよ」
 作者は「ギラギラ」と「ジャンク・ライフ」と「少女 A」を「自分の中の青春小説三部作」と呼んでいる。もしこの三作を貫くものがあるとしたら、それは打算も計画も理性もないところで、パワーだけ全開にした動物的な生命力なのかもしれない。すくなくともそのパワーは、大人が押しつけるヒューマニズムを随所で軽々と蹴飛ばし、メッキをはがしている。 (酒寄進一)
読書人 1992/10/12