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 今回興味をもったのは田島征三のの中のぼくの村』(くもん出版、一三○○円)と、長野まゆみの校ともだち』 (光文社、一二○○円)。
『絵の中のぼくの村』は、「ふきまんぷく』や『とべバッ夕』 (共に偕成社)など躍動感あふれる大胆な絵柄で知られる絵本作家のエッセイだ。一卵性双生児の兄征彦と過ごした幼少期の高知が舞台。そこで繰り広げられるさまさまな事件やいたずらが、あっけらかんとした文体でつづられていて、読んでいてとても気持ちいい。それに夕イトルのとおり、各章に著者自身による四色刷りの挿し絵がはいっていて、じつにぜいたくな作りだ。それから笑えるのが、著者とその兄が映っている写真の「どちらが征彦でどちらがぼくか、ぼくにもわかりません」というコメント。双子なのだから、大いにありうることなのだけど、「五歳から十歳までのぼくは、双子の兄弟の征彦といつもいっしょだった。征彦に対してぼくは、自分自身の内面世界そのものを見ていたように思う。だから征彦はぼくにとって、もうひとりの自分でもあった。しかし逆に、ぼくはぼくであり、征彦は征彦であるのだから、征彦は自分の力で動かすことのできない自分でもあった」という文章から、ぼくはふとアゴ夕・クリストフの悪童日記』(早川書房)を連想した。
つぎの『学校ともだち』は、宮沢賢治に似た透明感のある作風で知られる長野まゆみの最新書き下ろし小説だ。六学級B組の生意気ざかりな少年たちとオヅ先生の間で交わされた学級日記という構成で、一年間つづけられたその日記を通読するうちに、そこに登場する少年たちの人間関係や生活環境がほのみえるようにできている。時代設定はどうやら遠い末来らしい。そこで気になるのが、この少年たちが置かれている環境だ。オヅ先生の言葉としてこんな個所がある。「すでにかなりの地域で日中の外出が制限されています。夏期の外出制限もそのひとつですね。紫外線の量が深刻な極地ではシェル夕ア・シティの建設が進められています」
これを、『絵の中のぼくの村』のこんな文章と読み比べれば、子どもたちの生活環境がどれだけ違ったものとして描かれているか一目瞭然だろう。「太陽がじりじりぼくたちの体を焼いていた。二人は一秒でも早く澄みきった水の中に飛びこみたかった」
ぼくらの置かれている状況は、ゆるやかな曲線を描いて確実に『学校ともだち』で描かれたところへ向かっている。実際四十年後の「ぼくの村」はすでに村の面影をとどめず、彼らが遊んだ川は「下水のような溝」になっている。そういう現実をバネにして『絵の中のぼくの村』というエッセイは書かれている。
ぼくはこのふたつの作品を読んだあと、破局の前と後ということを考えた。ちようど今から十年ほど前、ぽくはこの言葉をよく耳にした。テレビ番組『ザ・デイ・アフ夕-』、レイモンド・ブリッグスの『風が吹ぺとき』、クードルン・パウゼバングの『最後の子供たち』等々。そう、破局の前と後というのは、核戦争という分脈の中でしばしば便われた言葉だ。そして今、破局の前と後はまったく別の分脈で語られつつある。つまり環境破壊という分脈で。分脈が違ったことで、破局のイメージも微妙に変化している。核が問題になっていたときは、加害者(大人)と被害者(子ども)の線引きがたやすく、始まりが点的で破局の前と後が鮮明に色分けできた。しかし問題が環境破壊になると、加害者と被害者の線引きはむずかしく、いつのまにか進行する破局はむしろ複合的でどこが始まりでどこが終わりなのかわからない。
こうした見えずらい破局を、ぼくは今回取り上げた二作品に見たけれども、もちろんその視点だけで読むのはまずいと思う。破局がどうあれ、置かれた状況の中で子どもたちがどのように生きたかが重要だろう。子ども時代の田島征三や、長野まゆみが描く少年たちに見られる、気つきやすい繊細さと人を傷つけやすい無頓着さの同居、そのあたりに、ぼくはものすごく共感した。 (酒寄進一)
読書人1992/11/1