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ぼくのパートナ-は最近、岩瀬成子の作品にご執心だ。新作『もうちょっとだけ子どもでいよう』(理論社、二ハ○○円)もさっそく横取りし、ぼくが読むタイミングを失っているうちに、ハリスの『海を渡るジュリア』(岩波書店)、べックーゲルンスハイムの『出生率はなぜ下がったか -ドイツの場合』(けい草書房)、水田宗子の『フェミニズムの彼方-女性表現の深層』(講談社)と、なにやらつかれたように読書している。 『もうちよっとだけ…』から『フェミニズムの彼方』にいたる彼女の思考の糸も気になるけど、『もうちよっとだけ…』を読み終えたばかりのぼくは、迷惑をかえりみず、いろいろ議論をふっかけてみた。彼女の『もうちよっとだけ…』に対する評価はちよっと辛かった。 「はじめのうち、読んでて眠くなったけど、後半はおもしろくなった。 『あたしをさがして』(理論社) の方がよかった。」実際それ物語るように、後半二三一頁あたりから青い付箋がびっしり。そしてそのあいだに、ぼくの付箋がぽつぽつ。ちよっと付箋をはった個所を一、二引用してみよう。 「小さいあなたたちとちゃんと遊んであげられなくて、いつもいらいらしたり黙り込んだりしていたこと、自分でも情けないっていうか、ゆるせないの。もっと明るい普通の母親になれればいいんだけどね(主人公の母)/「そんなに思いつめられると、こっちがしんどいよ。そのうち、なんとかなるって。パパはわたしに焦るなと言いながら、すぐに正しい答を見つけようとするからね」(主人公光。父に向かって) 以上はパートナーの付箋から。ぼくのはどうかというと、こんなフレーズ。 「何でも大人になったら、なんて言ってると、ほんとうに自分がしたかったことや、しなきゃいけないことを忘れてしまうよ」(もうひとりの主人公咲の友人、みおの言葉) 『もっちよっとだけ・・・』の主人公は、光(中二)と咲(小五)の姉妹で、物語はふたりの視点から交互に語られる。ふたりの父親はかつてアル中だったらしく、まっすぐすぎる母親は目下、新興宗教に夢中。はためにも危なそうな家族だ。でも、光と咲は家族にむかって怒りをあらわにすることはない。ふたりの目はもっぱら外にむいていて、さまさまな崩壊した家族や、居場所を失った若者たちを映し出す。 ただ、もったいないなと、ぼくは思った。登校拒否をはじめる光と、人の死をはじめて意識させられる咲の体験が、それぞれ独立した小説にできそうな題材だったからだ。もしそうすれば、ハリスの「ヒルクレス卜の娘たち」のシリーズみたいに、同じ時間と空間を別の人物の目で描き直す実験ができただろう。それをいうと、ぼくのパートナーは、「そのためには世界大戦みたいな、大きな事件が必要じゃない」といった。 たしかに、それはそうなのだ。ぼくらの今ここには、大きな転機などめったにない。表面的には満たされていて、器用で、誰とも摩擦を起こさない人が多い。でも、なんでもそこそこにできてしまうというのは、どんなものだろう。挫折や失敗への不安と達成感や喜びは表裏一体だと思うんだけど。 一方、干刈あがたの半自伝的な小説『野菊とバイエル』(新潮社一二○○円) の主人公、小三の永井ミツエの世界にはゼロからの出発があった。時は昭和二八年頃、場所は東京の郊外。戦後の大きな社会変動。そんな時代に、ミツエはためらいながらも、のびやかに成長していく。新校舎での始業式で新校長が語る言葉が、ぼくには印象的だった。「さて、校舎はできたというものの、まだ職員室には机はありません.図書室はあっても本はありません。校庭もこれからつくっていきます。みんなでこれから、学校のなかみをつくっていきましよう」 この小説と比較すると、岩瀬の新作は、型ができあがってしまっている学校や家族にあわせるしかない現代の子どものもどかしい気持ちをじつによく描き出しているといえそうだ。 「もうちよっとだけ子どもでいよう」子どもたちには、大人の底の浅さが見えてしまっているのかもしれない。 (酒寄進一)
読書人1992/09/14
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