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その装丁の良さに惹かれて手に取った。村中李衣『たまごやきとウィンナーと』(偕成社、一二00円)のカバーの見返しに、こんな言葉が刷り込まれていた。「読むことによって読者が癒されるのではなく、読まれることによって、物語が癒されていくーそういうことがあってもいいのではないでしょうか」と。
実は、これを読んだ時、ゾクッとした。そう、かなり期待したのである。 現在の日本において、あらゆるヒット商品の影には、この「癒し」というシカケが潜んでいるといっても過言ではない。これはもちろん、文学も同様で、村上春樹や吉本ばなな、そして江國香織といった作家が広く受け入れられるのも、その作品の持つ「癒し」の構造によるところが大きいのだ。(詳しくは大塚英志氏や桜井哲夫氏の著作をどうぞ)。それが今度は、読む側ではなく物語の方が癒されるという。なれば、物語の次のステップがこの作品で示されるのかと、期待はいやが上にも高まるではないか。 さらに、作者村中はかつて、読者が物語を読むというその視点にこだわることで、灰谷健次郎の『兎の眼』の贖罪の魔力について言及した、優れた評論を発表しており(「日本児童文学」一九八七年四月号)、この点を考えあわせてみれば、もう「物語を癒す」という新しい手法に対して、期待するなという方が無理というものである。 ところが・・・。 その読後感は最悪だった。無責任な両親を持ってしまったがために、ケナゲに生きざるを得ない兄妹を描いた表題作を筆頭に、どれもこれも、出口の見えないお話ばかりが並んでいるのだ。そりゃあ、「読まれることによって、物語が癒されていく」ということを、一方向の癒しを超えた、物語との双方向の癒しによって、さらに充実した読後感が得られるものと勝手に思い込んでいたのは、私がいけない。しかし、過剰な期待を割り引いたとしても、この物語を読んで、「物語が癒される」という魅力的なフレーズを、どう理解しろというのだろう。 もしかすると、再読することによって物語の質感が変わるかもしれないという淡い期待を抱いて、実はその後三回読んだ。だが、少なくとも私の読解力の範囲では、登場する子どもたちの置かれた暗い状況は変わらず、読む度により陰鬱となるだけであった。読者にとっての「物語が癒される」ということの意味は、こんな現実に生きている子どもの存在することを知ることなのか。あるいは、それでも懸命に生きる子どもたちの健気さに感動しろとでもいうのか。子どもの健気さに拠って立つ児童文学など最低である。前記の評論を見る限り、それが分からぬ作者ではないと思うが、この作品、はたしてどういうつもりで書いたのか。 では、口直しにもう一冊。この『極悪飛童』(牧野節子著、文溪堂、一000円)は読むと元気の出るお話だ。偶然にも、『たまごやきとーー』で、一番マシな話だった「おにいちゃんと」の初出誌、「飛ぶ教室」(楡出版)に連載された短編を集めたもので、表題作「極悪飛童」に始まって、「紙面素歌」「我心笑単」「夢味乾想」「色息世空」「自望自負」「満心創意」「安宙模索」「輪廻天唱」と、案外前向きな感じに置き換えられた、当て字の四字熟語のタイトルが並ぶ。これらは、物語の語り手を、前の話の脇役たちにバトンタッチしていくという形式で進んでいくのだが、これまた、現代という見えにくい時代を複眼的に捉える有効な手段として発揮されると共に、他者とのコミュニケーションを、ぎこちないながらもひたむきに図ろうとする若者たちの心を表現するのに、一役も二役も買っているのである。また、最終話で再び元の話へとつながることで、そこに流れた時間もさりげなく示されて、この作家の並々ならぬ技量が感じられる。ついでに、本作りの話もしておけばもポップなタイトルをデザインで増幅した、菊地信義の装丁もいいカンジだ。ちなみに今回は 題字が斜めではない。(笑い)。(甲木善久)
読書人 93/02/13
テキストファイル化 妹尾良子
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