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松村栄子『紫の砂漠』(新潮社)は、近ごろ稀にみる、密度の濃いファンタジーである。紫色に光る砂漠というひどくロマンチックな舞台背景を用いながらも、しかし、そのモチーフにはジェンダーとセクシャリティーという問題を抱え込み、骨格のしっかりとした作品となっている。 紫の砂漠を取り巻く村や町には、科学文明以前の生活様式を持つ人々が暮らしている。彼らには生まれたときに性別はなく、思春期に入って生涯の伴侶となる相手に出会うことによって初めて、〈生む性〉と〈守る性〉とに分化する。この出会い〈真実の恋〉は、人々にとって、人生における重要事項であると同時に、大変に神聖なものである。 また、この世界の人々の家族集団の形式の方法も特異である。、〈生む性〉と〈守る性〉の分化によってもうけられた子どもは、七歳まで、〈仮り子〉として育てられる。子どもは七歳になったときも〈聞く神〉のもとに集められ、〈告ぐる神〉の神託に従い、新たなる〈運命の親〉のもとへ行く。そして、その後の七年間、職業的訓練を受けつつ育てられ、次なる七年間に恩返しを済ませて、自由を得るのである。 この二つの世界の事情は、〈仮り子〉の時期に家業に対する訓練を行わないに留まらず、男の子、女の子としてジェンダー・ロールによるしつけをしないこと、血縁関係を基盤とした「家」の発想を排除することに寄与する。したがって、この世界には戦争もなく、差別〈特に、男女観の差別〉の意識が薄いらしい。 物語は、この世界観を土台として、辺境の〈塩の村〉で育ったシェプシを主人公として展開される。シェプシは好奇心の強い、賢い子どもであるが、他の人々とは違って耳が丸いため、子ども集団からはじき出された(という意識を持つ)者としての役割を担う。これによって、この物語が成立しているといっても過言ではない。実は、この丸い耳とは、世界の創造神話と深く関わっており、物語の後半を支える重要なプロットとなるものであるが、それをいってしまうと読む楽しさが半減するのでこれ以上は書かない。 さて、どんな物語であったところで、〈誰かに何かを伝えたい〉という衝動によって書かれるのではないかと思うが、しかし、その衝動が、時に思わぬ言葉を紡ぎ上げてしまうことがある。物語の言葉によって表現していたはずが、いつの間にか、伝えたいこと、表現したいことを直裁的に語りはじめるのである。そんな瞬間が、物語には多かれ少なかれあるものだが、ご多分に漏れずこの『紫の砂漠』にもあった。この世界の社会構造、神話構造に根本から関わることになった地球人の女性ジェセルの手記がそれである。 ジェセルの語るとこるによれば、彼女が仲間の元を離れ、この紫の砂漠の人々と関わることになったのは、男と女という「原始的な性区分になじめぬ者だった」からであるという。心の次元ではその区分になんら必然性を見出せないにもかかわらず、しかし身体の次元では未だその性に抑えつけられている。その矛盾の解答を、彼女はこの星の人間の性区分のあり方〈真実の恋〉に見たのである。「そこには運命のように見えて実は本質的な自由があり、人間に対する尊厳があり、孤独を避ける優しさがある。まるでわたしの夢が作り出したようなひとびとにわたしは希望をたくさずにはいられなかった」という、彼女の言葉をそのまま作者の言葉として受け取るのはもちろん早計である。が、このような特殊な構造をもった世界を物語らなければならなかった必然性は、見えるように思う。 セクシャリティーを問題にしつつも、主人公の経験する恋愛に対して今一歩踏み込めなかった点と、セックスを描けなかった点において、作者の目論みが100パーセント成功したとは思えないが、しかし、この実験は十二分に評価できるものである。(甲木善久)
読書人 98/10/04
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妹尾良子
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