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シンプルなつくりの絵本での中には、傑作と呼ばれる作品が多い。もちろん、この現象だけを見て、絵本はシンプルであればあるだけいい、などと決めてかかるつもりはない。が、たくさんのおかずをくっつけて表現するより、シンプルな形のままで表現を完成させることの方が難しいのは間違いないわけで、自然、そんな絵本は、それを可能にする力量をもった持った作家によって手がけられることが多くなり、結果、傑作が数多く生み出されてくるだろうなという気がする。 さて、ロシアの詩人V・ベレストフの原案(「はじめてのうたー若い古生物学者フェージャ・リョーヨンへー」という詩だそうだ)をもとにも阪田寛夫が文を起こし、それに長新太が絵を描いた『だくちる だくちる』(福音館書店)も、そんな、シンプルなつくりの中に芳醇な作品世界を秘めた絵本である。この本を読み終わった時、僕は久しぶりに「ああ、いい絵本を読んだなあ」という至福の気分に満たされた。 「はじめてのうた」というサブタイトルを持つこの絵本は、その名の示す通り、本全体がみごとに歌っている。「にんげんが うまれる ずっと ずーっと まえのまえ そのまた ずーっと まえに」イグアノドンが聴いた最初の歌ーそれはちいさな、ちいさなプテロダクチルスが歯をきしらせてうなる音ーこの絵本に描かれている内容は、実にたったこれだけのことである。火山の爆発音だけが地表に響き渡る光景を、長新太のダイナミックかつ繊細な筆は的確に描き出す。さらに、ピンクからダークグリーンへ、そしてオレンジ、ライトパープルへと色の変化をともなって、そこに生きるイグアノドンの寂しさや喜びを表現していく技は、いつもながら見事である。 また、絵に和し、導き、寄り添い、離れながら、文としての自立を決然と確保していく阪田寛夫の言葉の選び取り方もすばらしい。本を閉じた後も頭の中にリフレインする「だくちる だくちる だくちる だくちる」という言葉の調べには、黙読してすら読者の耳に残るえもいわれぬ心地よさがある。そしてそれは、まるで神謡や祝詞の持つ音の転がりのような、力強く素朴な心地よさなのである。 そうそう、このような文と絵の調和を生み出した、この絵本のブックデザインの良さについてもふれておかねばなるまい。絵の天地左右を断ち切らず余白を残した画面づくり、間を、呼気を感じさせるネームの配置。これらの本に対するこまやかな心配りは、絵と文の両方の作家の持つ奔放な勢いを止めることなく、けれど、それぞれが過剰に拡散しすぎないように、その融和を絶妙のバランスの上に創り出すことに、一役も二役も買っている。 ところで、こんなにシンプルですばらしい本が出版されている一方、相も変わらずこの世界では、読者である子どもをナメきったようなものが出版されているのだから、頭が痛い。これまで、この時評では、そんなくだらない作品があっても無視してきた。が、今回読んだ作品のひとつが、度はずれてヒドく、その責任は既に作者を超え、なぜこの本を出版したのかという問題をすら内包するものであった。そんなわけで、敢えて描く。 『チコとみずおとこ』(小川千歳作/くもん出版)という本がそれだ。とりあえずファンタジーらしいこの話は、きれいな水にしか住めない「みずおとこ」の存在に作品の成立基盤を負っている。ところが、リゾート開発によって山奥の美しい川から追われたはずの彼が、二層式洗濯機のすすぎの水を「ほんとにいい流れですね」とほざき、さらに主人公チコが彼と出会う必然性を、チコの家が蓋付きの全自動洗濯機ではなく二層式を使っているからだというのは笑える。河川の水質汚染が家庭排水に原因することくらいの常識を持たずに、ファンタジーとは片腹痛い。洗濯するのに「スプーンに半分くらいでいい」洗剤を使う家の洗濯機に出てくる、きれいな水にしか住めないみずおとこ。この設定の不備は作品を骨幹からダメにしている。それを編集はなぜ指摘できなかったか。シンプルと安易は違うのだ。こんな本づくりをしていては、子どもといえど読者は絶対に離れていく。(甲木善久)
読書人 1994/01/14
テキストファイル化 妹尾良子
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