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年末年始からこっち、読む本読む本つまらなくて、「バブルが弾けた後は児童書業界も守りに入って、これまでのパターンをくり返した、おもしろ味もへったくれもない、堅実な本づくりをしているナー」てなことを勝手に考えて、暗澹たる気持ちになっていたのだが、ここ一週間ばかりはアタリの本ばっかに出会って、「なんだ、これまでの不調は、単に巡り合わせが悪かっただけじゃないか」と、おのれの取材能力の低さを反省することしきりである。 まあ、そんなわけで、まずはそのアタリの本の書名を上げてしまう。発行順に、いとうひろし作・絵『おさるになるひ』(講談社、一一00円)、谷川俊太郎の詩に佐野洋子が絵をつけた『ふじさんとおひさま』(童話屋、一二八八円)、荒井良二の絵本『はじまりはじまり』(ブロンズ新社、一七00円)、斉藤洋作・村上康成絵の『ものまねきょうりゅう』(ほるぷ出版、一二00円)、ねじめ正一作・荒井良二絵『ひゃくえんだま』(すずき出版、八00円)、磯みゆき作・絵の『チョロくんはどきどき一年生』(PHP研究所、一二00円)の六冊が、それだ。 さて、今回のこの中から、いとうひろしの『おさるになるひ』を論じてみたい。この作品は、『おさるのまいにち』『おさるはおさる』『おさるがおよぐ』(講談社)に続く、「おさるシリーズ」の四作目にあたる。 作者いとうひろしは、『ルラルさんのにわ』(ほるぷ出版)で絵本にっぽん賞、当シリーズ第一作にあたる『おさるのまいにち』で山本有三記念路傍の石文学賞を受賞した、新進気鋭の絵本作家であるが、この「おさるシリーズでは、毎回なかなかおもしろい実験をしてくれる。それは、言葉にしてしまうとえらく哲学的になってしまうモチーフを、彼特有の「のほほん」とした画風と言葉の流れによって、すごくわかりやすく表現していくということだが、具体的にいえば、『おさるのまいにち』では「日常の中にある物語という非日常」を、『おさるはおさる』では「時間軸における自己存在の認識」を、『おさるがおよぐ』では「空間軸における自己存在の認識」を、といった具合である。一般的にいって、このような内容を子どもの本にまとめ上げようとした時、たいていは説教くさい寓話に成り下がってしまうのがオチなのだが、しかし、いとうがその愚を犯さず、純然たる童話としてこれらの作品を成立させているのは、ひとえに彼の、読者である子どもに向かうストレートなまなざしにほかならない。 この作者のまなざしが、四作目の『おさるになるひ』において、さらに深まりを増している。それはいわば、前三作において、「子どもが読む」ということを最重要視してきた作者が、今回の作品では「子どもで描く」という、作品のモチーフ領域まで「子ども」という存在を持ち込んできたということであるのだが、つまりは、アイデンティティーなどという言葉を使わずとも、「僕はどうやって生まれてきたんだろう」という具体的な言葉で、そのモチーフを示すことができるということである。物心がつく前の記憶の空白期間というものは、子どもにとって、自己存在の確認などという哲学的なものではなく、実に具体的でリアルな実感にすぎない。今回、モチーフにその「実感」を持ち込んだことで、語り手「ぼく」が子どもである必然性はより強く確保されていくのである。 また、絵の方も、四作目を迎え、さらにいい味を出してきている。特に、六九ページ「おかあさんの はなしを きいて いると、ちいさな ちいさな ぼくが、あちらこちらで あそんで いるのが みえるようでした」という文を受け、おさるの「ぼく」があちこちで遊ぶ、七0、七一ページのみひらきなど、それぞれの「ぼく」の存在感と全体の構図の安定が矛盾なく折り合った、すばらしい仕上がりである。 『おさるになるひ』は、これまでの「おさるシリーズけの成果を踏まえ、さらにその先へ一歩進んだ、いとうひろしの傑作であるといってよい。(甲木善久)
読書人 1994/03/11
テキストファイル化 妹尾良子
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