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最初に惹かれたのは、その表紙だ。髪を短く刈り込んだ、六歳くらいの少年のモノクロームの写真。口元にあどけなさが残る。その写真の上辺には作者の名前。そして、あろうことか、タイトル文字は、その少年の眼を覆い隠すように引かれた墨の上にのせられている。よく見れば、どちらの文字も、光線の加減によって色の変わる箔押し。しかもそこに、これでもか!といわんばかりのショッキングピンクの帯が付く。そこには何の煽り文句もなく、白抜きでただ「1999」の文字。さりげなさの中にも確実にいかがわしさを演出したその表紙は、平積みの本の中でも一際目を引いた。 それが、渡辺浩弐『1999のゲーム・キッズ』(アスペクト、一五00円)だ。雑誌「週刊ファミコン通信」に連載された、最新テクノロジーの様々な情報やアイテムをモチーフとした掌編小説集。作者はそれを、あとがきの中で、「仮想科学小説(シュミレーション・フィクション)」と呼ぶ。ちょっと見には、ただシーンだけを寄せ集めたような散漫なものにも思えるそれらの小説は、「速く、短く、鋭く、情報を検索して理解することについて、ものすごい能力を持ってい」るが故に、「長くまどろっこしい文章に我慢でき」ない「テレビゲームに慣れ親しんだ若者たち」に向けて、意図的に「情報圧縮の作業」を行ったものであるという。だが、その文章に関するかぎり、取り立てて斬新な技法が用いられているとは思えない。「情報圧縮の作業」とは、つまり、一人称による語り手の視点を忠実に一箇所に固定すること、と言い換えてもかまわない。 しかし、この〈本〉を通読した時、作者が仮想科学小説なる言葉を作ってまで表現しようとした何かはも確実に読者に伝わる。 読者の前に、それぞれの掌編は〈最新テクノロジーの解説→小説〉という順序で提出される。この解説は、小説を分かりやすくするために、といった消極的な意図で提示されるのではなく、それに続く小説と等価なのだ、解説と小説は組み合わさって、ひとつの作品となっている。簡潔な言葉で記された最新テクノロジーの解説。しかも、製品化されたものについてはそのインフォメーションまで付いている。この〈事実〉が情報として提示された時、読者の脳裏には現実感を伴ったあるイメージが想起される。そこに、語り手「僕」の固定された視点=゛見た目゛による小説がセットされれば、当然、現実感を伴ったイメージは小説の中へと取り込まれ、バーチャルな現実感へとシフトされる。 人間の認識感覚の誤動作を楽しむディズニーランドのアトラクション「スター・ツアーズ」では、その錯覚をリアルに観客に手渡すために「スター・ウォーズ」という物語に包み込んだ。『1999のゲーム・キッズ』は、まさにこれと同じ方法で、仮想科学小説(シュミレーション・フィクション)なるものを創り出そうとしたのである。冒頭に述べた凝った表紙にしても、売らんがための造りとしてより、むしろ、このような感覚的な読書体験を読者に提供しようとする思想の表われと見た方がいい。 さて、こうした、一冊の本それ自体を作品と見なす思想によって作られたであろう本をもうひとつ取り上げたい。にしざきしげる『海にむかう少年』(講談社、一四00円)である。この本は、帯のダサさを抜きにすれぱ、完璧といっていい。端正な日本語によって描かれた少年の成長物語。しかも、その「成長」とは、いわゆる大人になる(社会化される過程)に価値を持たせるようなチンケなものではなく、死を通過することによって新たな生を手に入れるという、極めて本来的なイニシエーションのあり方を描いたものである。 この物語を、マンガ家松本大洋のイラストが力強くサポートしている。もちろん、それは両者のバランスを見極め、本という形の中に結実させた、装丁の辰巳四郎手柄でもあるのだが。表紙の絵をバラし、風景を見返しに、人物を扉に使ったセンスといい、物語の呼吸を読み的確な場所に置かれた挿絵といい、マンガに対する認識がこれまでの児童書と明らかに違う。マンガちっくな絵さえ使えばなんでもいいと思って児童書を作っているような大バカ野郎に、この本のカバーの垢を煎じて飲ませてやりたい。(甲木善久)
読書人 1994/05/20
テキストファイル化 妹尾良子
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