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この四月、架空社から出版された絵本『きんぎょのおつかい』(一五00円)は、ちょっとスゴイ。この作品を読みながら、僕は〈童話〉と〈児童文学〉ということについて改めて考えこんでしまった。 この本は、与謝野晶子が明治四0年(一九0七年)に雑誌「少女世界」に発表した短編「金魚のお使」を、高部晴市が絵本にしたものである。念のためにいっておくがそれは、与謝野晶子の文に、高部晴市が絵をつけたというレベルのものではけっしてない。この作品は、これまでも、そして現在もくり返しくり返し出版されている「名作童話絵本」のたぐいとは、明らかに、一味も、二味も違うのである。 これまでの「名作童話絵本」とは、宮沢賢治、新見南吉、小川未明らの古典の中から、特に知名度の高い作品を、いわばパッケージングを替えて安定供給してきたに過ぎない。つまりは、そこに、出版される時代に対する「今、なぜ」という問いは存在しなかったのだ。しかし、この『きんぎょー』は違う。この本には、今、この時代に出版するということへの、能動的な選択がある。 まず、この絵本では、晶子の知名度に寄りかかって売れ筋を狙うという、姑息な思惑は見られない。それは、表紙および背表紙において、晶子の名前より先に「高部晴市/絵」という文字が記されていることからも、はっきりと見て取れる。それは、作者(と、あえて言う)と出版社のひとつの意思表明であるといえる。 そして、なによりも、これほどまでに知名度の低い童話を素材として選んだというところに、両者の積極的な姿勢が感じられるのだ。もちろん、だからといって、知名度の高い童話の絵本化が、みな志の低いものだというつもりは、毛頭ない。最近では、黒井健の絵による新見南吉の絵本『ごんぎつね』『手ぶくろを買いに』(偕成社)などがひとつの収穫だが、あいまいで叙情的な描写に頼る〈童話〉の語りに対して、黒井健が絵をつけることによってそれを逆にプラスに作用させ、淡々とした作品世界を作りあげることに成功している好例といえる。 それはさておき。 これまで、「金魚のお使」は、晶子が初めて発表した童話であるということ以外に、文学的な価値は見出されるようなものでなかったのだ。新宿から駿河台までお使いにやらされた金魚の、その道のりをつづっただけの単純なこのお話は、取り立てて優れた修辞がるわけでも、画期的な展開があるわけでもない、金魚をお使いにやるという擬人化による構成をとりながら、しかし、「きんぎょさんに切符はあげられません、お手てがないから」と駅夫にいわせた上、「電車に水を行けて下さい」「水を入れてもらわないと僕達は死ぬじゃありませんか」と金魚にいわせてしまう不自然さは、〈童話〉を克服した小説的リアリズムの視点からマイナスの評価を与えられ、これまで不出来とされてきた。歌人として輝かしい業績を残した晶子も、童話においては「お母さん童話」の域を出ず、経済的理由によってそれを発表したに過ぎない、というのが大方の見方であったのだ。 そんな、童話としては凡作、あるいは駄作として認知されていたはずの作品が、高部によって絵本化されたとたん、瞠目すべき作品として生まれ変わったのだから驚きである。今、これを絵本として見せられた時、作品全体を支配する、なんとも言い難い、不思議な魅力に気づかされる。 ボール紙 (みたいな紙)を下地にし、そこに版画的な方法で色を乗せ(ているのだと思う)、シロの色目はボール紙の表面を剥いで表現する彼の独特の技法は、温かみと、素朴さに加え、不条理感をも演出する。それによって、先述の金魚に関する不自然な設定があれよあれよという間に、不条理劇の台詞と化し、ある種暴力的な面白みを導き出してくるのである。 こと児童文学に限らず、今、文学は、小説的リアリズムが浸透しつくし、むしろその袋小路にハマり込んだかに見える。その袋小路の中で、改めて〈童話〉を振り返った時、小説的リアリズムが未熟であったがゆえの危ういリアリティのバランスに、僕たちは驚くのだ。だからこそ、この童話はパワーを持って迫ってくる。 そのことを、この作家と出版社は、おそらく、知っていたのだ。そして、それを確信的に再創造して見せたのだ。そんなわけで、『きんぎょのおつかい』は、単なる「名作童話本」などではけっしてない。今あえて、このお話を発掘し、絵本として提出した両者に敬意を表したい。(甲木善久)
読書人 1994/06/10
テキストファイル化 妹尾良子
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