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 今年もまた、あの忌まわしき「課題図書」が書店に平積みとなる季節がやってきた。毎年、あの光景を見るたびに、いや〜な気持ちになってしまう。そして、おそらく、これは僕だけの個人的な感情ではない。
 「無理矢理押しつけられたようで、課題図書ってなんとなく嫌だった。だから夏休みの宿題の中でも読書感想文って後まわし。楽しくないんだ。でも、スピリッツが推奨する゛課題図書゛数冊は、無理矢理でも読んでおいたほうがイイ。読めば感想文もすらすら書けるけど書かなくてイイ。でも、きっとアナタの心に何かが残る」というのは、コミック誌『ビッグコミック。スピリッツ』の一昨年夏の広告コピーだが、少なくともこれが広告として機能する限りにおいて、感想文で苦労したせいで「課題図書」が嫌いになった者が相当数いるということができるだろう。
 ついでにいうと、このコピーに表現された「課題図書」に対する悪感情は、実に的確で、「無理矢理押しつけられ」た「楽しくない」ものが、しかも、読むことと書くことがセットになってやってくるというのは、感想文を難なく書けるような優等生を除けば、子どもにとってかなり嫌なことなのだ。
 さて、この「課題図書」というもの、全国学校図書館協議会という民間団体と、毎日新聞社という民間会社の主催する、青少年読書感想文全国コンクールの「課題図書」であることは、ご存じだろうか。おまけに、このコンクールにはもともと「自由読書」のカテゴリーがあり、なにも「課題図書」でなくても応募はできるというのがミソである。
 にもかかわらず、「課題図書」ばかりがなぜかクローズ・アップされてしまう。もちろん、ひとつには、夏休みともなれば子どもに本の一冊も読ませようと唐突に邪心を抱いた親たちが、けれども、本屋さんで何を買い与えてよいのかわからずに「権威」によって選ばれた本を買ってしまうという構造は確かにある。しかし、腹が立つのは、その構造を助長するような広告を行い、自らを持って権威づけを図ろうとする「課題図書」のあり方である。いま、僕の手元にある今年度分のA5判のチラシには、コンクールに「自由読書」部門のあることは告知されていない。しかも、注文の申し込み書も兼ねているこのチラシには、名前のみならず、不思議なことに、学校名、年、組を書く欄がある。そして、さらに念の入ったことには「感想文は先生にお出し下さい」なんて書いてあるのである。これでは、公的機関である学校のやっているコンクールのために選ばれれた「課題」と勘違いする人がいてもおかしくはない。
 もうひとつ、「課題図書」が目立つ理由に、他の児童書に較べるとケタ違いに多い広告の量がある。毎日新聞系のメディアと、全国学校図書館協議会の会報、そして、各学校に配布されるポスターなどによる告知はかなりのものだが、面白いことに、この資金のほとんどが課題図書として選ばれた段階で各出版社の払わねばならない協賛金(合計でおよそ一億四千五百万円ほど)で賄っていると聞く。まあ、売れるのだからいいやと出版社の方もお金を払うのだろうが、勝手に選んでおいて金を取り、しかも、広告メディアは主催者のものばかりというのも、考えてみれば妙な話である。
 また、本の表紙にでかでかと貼られるあのシールもいただけない。確かに、目立つには目立つのだが、それぞれの本の意匠を凝らした装丁を著しく破壊するのみならず、剥がそうと思ってもなかなかきれいに剥がせないやっかいものである。中には、今年の『ミラクル』(辻仁成・作/望月通陽・絵/講談社)のように帯の方に貼ってくれる場合もあるのだが、ほとんどはカバーである。あの図版をそのまま帯に印刷するわけにはいかないのかと知り合いの編集者に聞いたところ、なんと、あのシール、各出版社が一枚五円で買わねばならないのだそうである。それを、十円くらいかけて自前で貼り、しかも、返品がくればカバーを全部取っ替えしなきゃいけないと泣いていた。
 こんないかがわしいシステムによって成り立つ「課題図書」が消費されるのも、結局は、〈夏休み→宿題→読書感想文→「課題図書」〉という大人側の無自覚なパプリック・イメージに支えられているとすれば、これは、やっぱ、ヤバイよなー。 (甲木善久)
読書人 1994/08/28
テキストファイル化 妹尾良子