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 七月中旬から八月にかけ、各出版社は夏休み攻勢なのか、かなりの数の新刊本を出してきた。しかも今年は、なかなかに読み応えのある作品が多く、充実度は高かったように思う。翻訳物を除き、中でも特に印象に残ったのは次の三作である。
 竹下文子ののはじまり』(偕成社、一000円)は、長篇「黒ねこサンゴロウ」シリーズの一巻めに当たり、文字通り「はじまり」の役割を果たしている。物語は、語り手の少年が単身赴任中の父のもとに向かう旅の途中、黒猫のサンゴロウと出会うところから始まる。少年はサンゴロウに誘われ、彼の宝探しに同行する。そして、その途上、当然のこととして、サンゴロウは宝探しに関する情報を少年に語るのだが、やまねこ族とうみねこ族の抗争、うみねこ族の隠された宝、サンゴロウは珊瑚郎でうみねこ族の末裔であることなど、彼によって物語られる因縁は、実は二巻目『キララの海へ』以降に展開される物語の世界観である。こうして、少年の耳を通し、読者に物語の背景を理解させる手法はなかなか面白い。しかも、その導入を薄っぺらなものとさせなかったのは、この話を少年の「神隠し」の話ー子どもが大人になる過程でくり返す両親の手からの逸脱の物語として、十分読むに耐えるよう描いた点にある。この物語を、長篇の「はじまり」として、さらに、少年の大人への 道のりの「はじまり」として両立させるあたり、作者・竹下のベテランの技が見て取れる。
 ベテランといえば、上野瞭そいつの名前はエイリアン』(あかね書房、一二00円)も、いつもながらのうまさを見せてくれる。物語は、「お金を返してくれ!」「泥棒!」「人殺し!」という物騒な内容の電話を受けたことをきっかけに、日常が奇妙に捻れていく少年の一種の心理ドラマであるが、唐突に日常に割り込んでくる匿名性の言葉ー電話という装置を使って物語りを語り出すのは、作者・上野瞭の得意とするところであり、今回も、そのパターンの使い方は見事である。家庭という閉鎖した日常を生きざるをえない子どもにとって、両親の心の揺れはさらに大きな波となり、ひとつの恐慌状態を引き起こす。この恐慌状態を安易な現実主義でなく、一見すると突飛な、けれど物語のリアリティーに十全に従ったやり方で描き出すのは、上野にとってもはや手練の技である。
 富安陽子キツネ山の夏休み』(あかね書房、一三00円)は、少年が父の故郷で夏休みを過ごし、そこで不思議な体験をする、というお話である。この構造は、児童文学におけるひとつの定型(休暇物語+ファンタジー)を踏んでおり、物語として読ませるものにできるかどうかは、あくまで作者の手腕にかかっている。もちろん、こうして取り上げる以上、それは十全になしえているわけで、キャラクターの作り方から、伏線の張り方、背景の描写に至るまで、随所に行き届いた配慮がなされている。一例を挙げれば、冒頭シーンを旅の途中の乗換駅とすることであらかじめ主人公から日常性を剥ぎ取り、その上で、たたみかけるように謎の人物に出会わせながら、旅の終着地、父の故郷・稲荷山が少年にとっての異界であることを、すんなりと読者に納得させる技術など、露骨さの一歩手前を見切った踏み込みがなければ、なかなか出来るものではない。ついでにいっておくと、作中に出てくる「水まんじゅう」がすごく美味しそうである。こうした細かいディテールも作品の大きな魅力であることは、もちろん、いうまでもない。
 さて、これらどれにも共通していえるのは、スタンダードの力とでもいおうか、物語の型を実にうまく取り込んで作品を創り上げていることである。今日の児童文学の状況が閉塞し切っているのは、読者である子どもたちへの届けられ方、販売の形態といった、メディアの構造に大きな問題があることは間違いないが、同時に、面白く読める作品が少ないということもその一因である。「現実の子どもを描く」という信仰に拘泥し、物語の技術を軽んじてきた傾向のある戦後日本の児童文学の書き手たちは、今、このことを十分に考えてみる必要があるのではないだろうか。(甲木善久)  
読書人 1994/09/16

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