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マガジンハウスから出た翻訳、マイルス・ウルフの『世界で一番大切だった場所』(脇山真木訳、一六00円)が、おもしろかった。手にとってみたのは、カバー・イラストが杉田比呂美のものだったという単純きわまりない理由に過ぎないのだが、しかし、いざ読み始めると、章を追うごとに加速度的に物語に引き込まれ、結局、おしまいまで一気に読み通してしまったのだ。 さて、この作品のおもしろさを一口でいうとすれば、それは話法のおもしろ味である。もっとも、この作品の良さがそれだけであったというわけでは決してなく、B級のマイナー・リーグ球団のゼネラルマネージャーをつとめる(が、貧乏である)叔父と共に暮らす主人公の日常、ポップコーンとホットドッグのにおいに象徴される、一九五0年代後半のアメリカの風景は、実に魅力的である。 本書の帯には、「少年時代の終わりを見事に描いた、もうひとつの『スタンド・バイ・ミー』」なるコピーが書かれているが、それはここに描き出された風俗と、そして、〈死〉を通過することによって少年が大人になる物語という意味において、まさに的を射た名付けであるといえる。 だが、もう少し作品に近づいてみた時に見えてくる、両者の描いた〈死〉の性格の違いは大きい。「スタンド・バイ・ミー」を仮に〈死体〉の話だと規定するなら、本書は〈殺人〉の話である。しかも、それを行うのは主人公であり、語り手であり、と同時に、読者なのだ。 そう、この奇妙な構造を可能にするのが、先ほど触れた話法である。全部で十三に分けられた章は、頭にほぽ一ヶ月のタイム・ラグを持ちながら進行し、そして、それぞれ「二人称の語り+一人称の語り」という二重の話法で展開するが、このコンビネーションの妙が本書の真骨頂なのである。 「ちょっと寄り道してあの町を通ってみようかな・・・おそらく君はこう思っている。理由なんてない。時間の余裕もあることだし、あの町の発展ぶりを見るのも悪くなかろう・・・というわけで、君はインター・ステートの出口に向かう」というのは第一章の冒頭だが、ご覧のように二人称の文体はかなり居心地の悪いものである。不勉強であるがゆえに、二人称の文体を用いた作品はローリー・ムアの『セルフ・ヘルプ』(白水社)と、梶原葉月の『恋愛相談』(福武書店)くらいしか思いつかないが、どちらも精神療法ないしはカウセリングの話法を模写した一種の心理小説で、「あなたは・・・」と語りかけられることによって、読者の真理がそのまま作品状況の主体として固定されていくという特徴を備えていたと記憶する。しかも、この文体には、暗闇の中を手探りで歩まされるような不安感がつきまとう。 『世界で一番ー』は、こういった効果を巧みに利用しながら、一人称によって語られるメイン・ストーリーの状況の中に読者を縛り込むのである。そして、その縛り込みによって読者がシュミレートさせられるのは、少年が大人になるために行なわなければならなかった〈殺人〉、父親殺しである。 少年が通過儀礼の際、父親を殺さねばならないのは、かのオイディプスの名を出せば、改めての説明の必要はあるまい。この作品は、その通過儀礼でお約束を読者に体験させることを目的として描かれている。既に中年にさしかかった「君」=読者は、インター・ステイツという日々の暮らしの本道から降ろされ、過ぎ去った少年時代という名の異界へと連れ去られる。しかし、「君」には、過去の記憶があたえられていないため、再体験であるはずの少年時代も、緊張感を持ったリアルタイムの体験としてしか通過することができないのである。もっとも、「君」である読者が、父親殺しという通過儀礼を柔らかくシュミレートできるように、心優しき介添え者が周到に配され、さらに、生活に不安のない中年という時間が戻るべき場所として用意されているのだが。 『世界で一番ー』は、少年にいって必要不可欠な父親殺しを上手に体験させてくれる作品である。だとすれば、これが一級のヤング・アダルト作品であることは、疑う余地がない。(甲木善久)
読書人 1994/10/21
テキストファイル化 妹尾良子
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