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作品内に「子ども」という存在を得ることで、そして、その存在を通してしか描きだせない世界を描くものであれば、僕はそれを児童文学と呼びたい。 そういった意味で、木地雅映子『氷の海のガレオン』(講談社、一二00円)は、今日び稀に見る、優れた児童文学であるといえる。この作品集には、十一歳の斉木杉子の日常を描いた表題作、中学生の美福と精霊の宿る木ソーマとのファンタスティックな邂逅を描く「天井の大陸」、そして、高校生の祥子と魔女を連想させるエキセントリックな級友トリコの奇妙な友情を描いた「薬草使い」の三編が収められており、読者は順にこの三作品をたどって、ゆるゆかに癒されていくという仕掛けになっている。 しかし、なんといっても、この作品集の中で秀逸なのは、表題作だ。ここに描き出された、子どもならではの心の動きがすばらしくリアルである。そのあまりのリアルさに、僕は小学校時代のあの悪夢のような学校生活を思いだし、今、大人であることの幸福をつくづく噛みしめたほどなのだ。 朝なんか来なけりゃよかったが、そういう訳にもいかなかった。朝が来た。 ではせめて学校なんかなけりゃよく、それはそういう訳にいってもいいと思うのだが、やはり学校は存在する。(二九頁) と、いったような語りに出会うと、ただ単に肉体としてこの世に誕生した行政年度が同じだというだけで、育てられ方も、環境も、精神性も異なる人間たちが、ひとつところに集められ、押し込められ、学級なり学校なりといった集団を形成させられた、あの悪夢が皮膚感覚としてよみがえる。 子どもの時分は成長が早いから、それゆえに、分かってしまった子と分からないままでいる子との落差は大人の比ではなく、しかもその摩擦から生じる傷は、当然、ナーバスな方が引き受けることになる。 まして、この作品の主人公・斉木杉子のように、詩人であり、畑仕事を好み、ブルガリアン・ヴォイスを胎教とし環境音楽として聴く母を持ち、作曲をし、イベントのコーディネイトをし、ある時はフラリといなくなってしまう父のもと、「図書室」のある家で、本当の精神の自由を与えられて育てられたなら、野蛮で平凡な子ども集団の中で傷つくなという方が無理ではないか。そう、彼女はその名が示すように才気が過ぎた子であり、そして、それは子ども集団の中では罪となる。 だが、彼女は痛々しく内にこもったりはしない。確かに、両親の旅行中、登校拒否(確か今は、不登校というのだったか)をしたりするが、けれど、それは世間の大人たちがステレオタイプに考えるほど暗くジメジメしたものではなく、彼女の中のごく自然な成り行きとして、あっけらかんと行われる。 「氷の海のガレオン」を貫く杉子のモノローグは、いわゆる子どもらしいものではない。しかし、その感受性のあり方はまぎれもなく子どものものである。傷つき方も、悩み方も。そして、なにより子ども的であるのは、彼女の語りの中に満ち満ちたプライド−それは生きていく意志とも呼べそうな人としての誇りである。「ずらりと並ばせられて職員室で、わたしは自分が気高い表情をしていると思った。鏡を見たわけではない。自分で、内側から、そう感じた。(一0九頁)」という、エンディングに近い一節は、そのことを明確に物語っている。 この作品に敢えて不満を述べるなら、あと倍ほどの長さにして、彼女の内面の変化に従って、物語を終えて欲しかったということだが、まあ、それはないものねだりというものだろう。 ともかく、ここまで子どもの心に近付ける、この作者の次回作が大いに待たれてならない。(甲木善久)
読書人1994/11/18
テキストファイル化 妹尾良子
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