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マンガ『美味しんぼ』の話ではないが、素材本来の味を備えた食品を口にした時、軽いショックを受けることがある。例えば、すっぱ味のあるみかんを食べた時、あるいは、醸造用アルコールを混ぜない日本酒を飲み下した時、忘れかけていた感覚が久しぶりによみがえり、「ああ、ほんとは、こうなんだよね」という思いが広がってくる。そして、考えてしまうのだ。日頃自分が口にしている食べ物が、いかに平坦な味わいしか与えてくれないか、ということについて。 木村裕一・作、あべ弘士・絵『あらしのよるに』(講談社)の読後感は、まさにこのようにものだった。 嵐の夜、風雨に追われた一匹のヤギがあばら屋に避難してうずくまっていると、そこへ傷ついたオオカミがやってくる。二匹は、真っ暗な小屋の中で互いの姿が見えず、おまけに、鼻風邪を引きこんでいて、においすらわからない。そんなわけで、双方、ちょっとした行き違いから、相手も自分と同種の動物だと思い込んでしまう。そうして、荒れ狂う嵐の不安からか、二匹は、ぼちぼちと世間話を交わし始める。 「どちらにおすまいで」 「へえ、おいらは、バクバクだにの ほうでやんす」 「ええ?! バクバクだにですって? あっちの ほうは あぶなくないですか?」 「へえ〜、そうでやんすか? ま、ちょっと けわしいけれど、すみごこちは いいんでやんすよ」 などという、他愛もない会話は、けれど、両者の誤解を解消するどころか、実にきわどい線を保ちながら思いこみを助長させていく。お互いに気遣い合いながら、暗闇に向かって恐る恐る言葉の触手を伸ばしていくように交わされる両者の会話は、嵐の中に置かれた不安と、同時に、もう、一匹いるのだというわずかな安心を、余すところなく表現する。 だが、こうした二匹の心をあざ笑うかのように、会話の後には冷徹な語りが付されていく。曰く、「バクバクだにとは、オオカミたちの いるたにである」「うまい くいものとは、ヤギの ことである」等々。この現在形によるそっけないナレーションは、台詞毎にヤギとオオカミに感情移入しているはずの読者の視点を、ひとつひとつのシーンが終わるたびに引き剥がし、突き出し、傍観者の立場へと置き去りにしていく。 したがって、読者は、二匹のドキドキに加え、手出しのできない傍観者のハラハラを感じつつ物語を読み進むことになるのだが、さらに、それを挟み込む形で左右にレイアウトされた絵が、実にみごとに緊縛感を煽っていく。右に配されたヤギの絵と、左に配されたオオカミの絵は、墨をバックにした線画である。文章を間に挟むことによって。隔絶された両者の心理状況を示し、しかも、読者の視界にはその双方が入っている。話題に即してそれぞれ想起するイメージは、彼らの頭上に描かれ、やがて、それが見開きの中央部へと移動していくことによって、誤解の深まりを克明に伝えるのだ。 こうした、やさしくない展開を経て、あろうことか二匹はうち解けていく。もちろん、この二匹の心境の変化と反比例して、読者の緊張感は増していくのだ。そうして、作者は、そこへ雷を落としてみせる。稲妻の光で部屋の中を照らしだし(当然、両者に相手の顔を見せるようなことはしない)、雷鳴の音にからだを寄せ合うよう仕組むのだ。真っ暗闇の中で不安におののいていた者が、相手のことを見たはずだという錯覚を得、肉体的接触を経たならば、友だちになろうとしてもおかしくない。 ここで二匹が友だちとなり、オオカミとヤギの垣根を超えて仲良くなりました。といった、ただの童話のようなやわなエンディングを迎えることは、この作品の場合もちろんない。昔話や寓話が、子どもに語られる話でありながらも、まぎれもなく持っていた毒を、この作品はキチンと含んだまま終わるのだ。 お殿様に家来たちが供した秋刀魚よろしく、脂抜きされて味気なくなった子どもの本ばかりが巷にあふれ返っている昨今の状況を、改めて考えさせられた一冊であった。(甲木善久)
読書人1994/12/16
テキストファイル化 妹尾良子
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