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 昨年十二月、「ファンタジーの創生」というシンポジウムが日本子どもの本学会によって開かれた。各パネラーのファンタジー観にはずれがあって、なかなか噛み合うところまではいかなかったが、ファンタジーのどこに関心があるのかという話だけでも面白かった。そのときパネラーのひとりだった芝田勝茂は、作家の立場から創作の裏事情を明かしてくれていた。それによると、芝田はファンタジーを書きはじめるときに編集者に薦められてトールキンの作品を読み、こういうファンタジーもあるのかと驚いたそうだ。ただし現在は別世界の構築にはあまり関心がなく、むしろ現実と幻想のはざまに興味が向かっているとか。その芝田の新作が店頭に並んだとなれば、興味をひかれるのが当然であろう。きみにあいたい』(あかね書房、一三〇〇円)だって? なんの話だろう。書名からみると恋愛小説のような感じがする。もしかすると今までとはちがう傾向の話なのかな?
 幸恵は中学二年。家庭でも学校でも目立たない、やや陰気な女の子である。実は、幸恵には他人の心をよぎるつぶやきが聞こえるという超能力があった。そのせいで傷つき、悩み、孤独だった。それに気付いた幸恵はこの力を使わず、ふつうになろうと決心する。そんなおり、淋しく、つらそうな少年の声が聞こえてくる。幸恵は思わず少年に返事をする。すると少年は、全世界を破壊し幸恵とふたりきりになりたいといいだす。びっくりした幸恵は「ふつうになれ」と説得するが、少年は聞き入れず、自分の力を誇示しはじめる。
 前から思っていたが、芝田には「現代」をキャッチする鋭いアンテナがあるようだ。表面的には問題がないように見える中学生にもそれぞれ悩みがあることを、超能力をもつ少女を借りてうまく表現している。読み手はこの主人公の上に、人知れず悩みを抱えている現実の中学生たちを重ねずにはいられない。また、孤独を抱える人間が、何もいわずにただ優しく抱きしめてくれる相手を求めることも、ごく自然な感情である。だから「きみにあいたい」という少年の気持ちにほだされてしまう。そして、次々にページを繰りたくなる。ところが… 芝田は、わたしのように甘い期待を抱いていた人間の足をすくい、うっちゃりをかける。人間の心のすきまから話を飛躍させ、現代社会にひそむ科学のあやうさ(具体的には原子力発電所の事故)へと、話をもっていく。また、少年の正体についても、きちんとした説明を用意する。そして結末では主人公へのケアを忘れていない。
 後発の分の悪さを承知の上で、ル・グウィンやカニグズバーグの向こうを張る主題に挑むだけあって、芝田の技術力はかなりのものである。だから心理的ファンタジーとして高く評価していいはずなのだが、読み終えて「ああ、そうだったのか」と満足の吐息をもらすには<何か>が足りない。読んでいるうちに相手が空中分解したような、そんな感覚だ。それに『ふるさとは、夏』のような、風土に根差し、しかもユーモアのあるファンタジーではなかったという失望感もある。現実を突きつけるだけではなく、問題解決の過程にほのかな明るさや楽しさを付け加えてほしいと願うのは、あまりに無理な要求だろうか。 胸のつかえが消えないままあれこれ眺めていたとき、中村道雄の神と狐』(宮沢賢治作、偕成社、一六〇〇円)に出合った。中村は『よだかの星』や『そこなし森の話』でもこの組み木絵の技法を用いている。これは布や紙によるコラージュとちがい、継ぎ目が見えることを逆手にとっている。また木目のある木という素材そのものが、「ゲニウス・ロキ」(場所の 精霊)が登場するこの物語にぴったりというべきだろう。荒々しい「土神」の黒髪と黒い爪に迫力を感じ、蒔絵細工を連想させる夜の風景に見ほれる。物語そっちのけで絵を楽しみ、印刷とわかっているのに思わず画面に触ってしまう、そんな絵本である。
読書人 95/05/26
           
         
         
         
         
         
         
         
    

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