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『児童文学の魅力--いま読む100冊・海外編』(日本児童文学者協会編、文渓堂、二五〇〇円)をぱらぱらと拾い読みをしていた--書評を書こうと思わない限り、これが「正しい」読みかたなのである。で、キャサリン・ストー『ポリーとはらぺこオオカミ』を論じた項目に目がとまった。ストーのオオカミは「名作昔話の数々を手本として、ポリー襲撃を繰り返」すが、一度も成功しない。成功すれば物語が終わってしまうからなのだが、執筆者小沢正はあえてオオカミが病んでいる証拠と見る。なるほどこういう解釈もあるのかと読み進むうち、「ポリー嬢に向かっては『たまにはあなたもオオカミに食べられてみてはいかが』と申し上げておきたい」という一節にぶつかり、驚いてしまった。もちろん、おとぎ話を読み替えるからには、このくらいの「毒」は当然といえようが。 こんな話を持ち出したのには少し事情がある。実はその少し前にジェームズ・ガーナー著『政治的に正しいおとぎ話』(DHC、一二〇〇円)を読み、首をひねっていたからだ。これはおとぎ話を書き換えたものだが、どの話もいまひとつ面白くない。原書を読んだときは途中で投げ出した。今回はさすがに最後まで読んだが、印象は同じ。もしや、笑いに対するアンテナが狂ったのかと案じたが、最近見たパロディーをきかせたミュージカル(『禁断のブロードウェー95』)には十分笑えたし、木村裕一の『そとであそべ!』(講談社、一〇〇〇円)では、おとうさんが本音とたてまえを交互にのぞかせているおかしさに反応した。アンテナはだいじょうぶ、どうやら原因は別のところにあるらしい。 「政治的に正しい」とは、偏見や差別を排除するということ。そのため、「行動的非所有者」とか、「経済的な恩恵からひどく疎外された」などの長たらしい言い回しが用いられ、いささか辟易する。むろん過剰な言い換えをからかう効果は生じていて、そこに反応する人もいるらしい。だが気になったのは、物語性が転覆・解体され、あたかも読者を突き放しているような印象を与えることだった。物語の意味をずらし、価値観を揺さぶるパロディは大好きだ。でも、「お話」である以上、読み手に豊かさを暗示させるものが何か欲しい。あいにくこの作品集にはそれが感じられなかったのだ。この本は「大人向け」だから、無視すればいいか(!)とも思ったがーーだってここは児童文学をあつかう欄だからーー、パロディがすべてこんなものだと思われては困ると思い直した。そこで思い付いたのが『のはらひめ』(中川千尋、徳間書店、一四〇〇円)である。 いつもお姫様になりたいと願っていたまりのもとへ、ある日「おひめさま城」から迎えがくる。ここはお姫様予備校で、全課程をこなした暁には世界中どこのお姫様にもなれるという。だが、いよいよ城を離れるとき、まりが選んだのは自分の野原でお姫様になることだった、というのがあらすじ。むろんこれは、伝統的なお姫様物語に一石を投じたものである。しかし、この絵本の真骨頂は、絵そのものが一種の「批評」になっていることだろう。わたしはかつてお姫様に憧れた覚えがある。誰もがそうだとは言えないが、でもお姫様になろうとする主人公は、読者の気持ちをひきつけやすい。そこを出発点にし、読者の心をしっかりとつかんだ上で次の段階へ誘っているのがうまい。まりの世話係りや教師を見ると、時代も人種もさまざま。衣装からも、この物語が古今東西を自在にゆきかっていることがわかる。お姫様になる稽古と称して、それぞれの文化のちがいを示唆し、さらにお姫様という身分のばかばかしさ、不合理さを描く。むろん怪物と闘う稽古では、固定した女性の役割をさりげなく否定している。なお 最大の収穫は、このように肩の力をぬいたソフトなパロディとでもいうものが、国産で登場したということであろう。
読書人 95/06/23
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