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「ごめん!」いきなりあやまって、どないするねん? 「ちがうて、ひこさんの新作のタイトルや」あ、かんにん。で、どうやったん? おもろかった?「そりゃあ、ごっつうおもろいで。けどな、なんせテーマがテーマや。説明すんのが、えろうたいへんや」 ふふふ。柄にもなく大阪弁に挑戦したのは、ひこ・田中『ごめん』(偕成社、一八〇〇円)を読んだせいである。関西の人の書いた本を読むと、自分にも方言が使えるような錯覚をおこすから不思議だ。あいにく、化けの皮はすぐはがれ、長続きしないのだが。というわけできょうは『ごめん』について。九二年『カレンダー』から四年ぶりの書き下ろし、テーマは、小学六年生の男の子の「春のめざめ」。はじめて夢精を体験し、同時に初恋を知った主人公が、子どもと大人の境界でおたおたしているようすが、主人公の一人称で語られている。様々なアプローチが可能な本なのだが、設定と用語に注目してみたい。 まず設定だが、主人公は比較的平凡なゲーム大好き少年の聖市。友人はプロレスラーに憧れ体を鍛えている草男と、観察力があり心やさしい和平。三人のうちで聖市がまっさきに大人の仲間入りする。おまけに初恋の相手は年上の中学生だった。読み手には笑えるエピソードだが、聖市は初めてずくしに悩み、おたおたする。人は、誕生時からすでに親や周囲の人間によって「頭髪の多小」とか「しゃべりはじめの時期」など、たえず比較されてきた。この発達レースを当事者の立場から気にしだすのが思春期というものだろう。そのさいもおしゃべりな子どもは、口が軽いとして、マイナスに評価されかねない。それを作者は、思春期を生きのびるときに役立つものとして評価している。つまり、聖市が悩みをばらし、あれこれ考えてみることが、友人たちの手本になるという発想である。 つぎに用語では、一人称の語りのなかにテレビ・ゲームの用語がとびかい、主人公の気持ちを表す小道具として使われている。説明抜きにこうした用語が登場することには異論があるかもしれない。(わたし自身はゲームをしないが、コンテクストである程度理解できると思う。)でもこれは基本的には、昔の子どもに、思春期をノスタルジックに楽しませる本ではない。同じように切実に悩んでいる今の子どもが対象だ。そして「テツジン二八ゴウ」や「ジュリー」がただのカタカナにしか感じられない世代には、その世代に通用する記号と表現が求められるだろう。たとえば主人公は、友人の部屋にあるのは「たしか昔はブルーやったけど、経験値を積んで今は灰色にレベルアップしたカーペット」だという。これを「薄汚れて灰色の」としたのでは、あまりにあたりまえというもの。あるいは友情とか失望とか、まともに表すのが照れくさい感情についても、そのつどヒットポイントの点数で表現している。さらに共感を覚えたのは、こういう道具で読者の心をつかみ、物語全体をテレビ・ゲームのアナロジーのように思わせておいて、そのうえで現実をはっきり認識させている点である。主人公は、現 実には感情が迷路にはいりこんだからいって、ゲームのときのように「リセット」、つまりやりなおしすわけにはいかないことを発見する。しかもゲーム内での「経験」だけでは武器としては役不足である。現実のさまざまな場を想定し、行動することが必要になるのである。なお初恋の女の子を通し、「男が闘う」ゲームのパターンへの反発という視点も導入されている。かつてアメリカのジュディ・ブルームは、女の子の初潮やブラジャーに関する悩みを描き、大人からは批判をあび、子どもには喝采された。ひこ・田中の作品はいわばその男性版にあたる。詳しく述べる余裕がなくなったが、さりげなく男女の性差にまで目配りのきいたこの作品は、究極の実用書であり、今の男の子にとって──興味があれば女の子にもすてきな思春期ガイドとなるだろう。
読書人 1996/03/22
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