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 『季刊ぱろる四号』(パロル舎、一二〇〇円)の特集「宮沢賢治といふ現象」を読んでいたら、二組の別の対談で、耳できく賢治が耳目を集めているのを発見した。<岸田今日子と舟崎克彦>及び<小澤俊夫と猪熊葉子>の対談で共通していたことを(乱暴なのを承知で)紹介すると、賢治作品に独特のリズムがあり、東北弁がそれに味わいを添えている、だから受け取る側ももっと言葉に敏感になってイメージを再構築したいものだとなる。はからずも二組の対談者たちが、朗読には東北弁のできる長岡輝子氏のような朗読者が理想的だ、と指摘していたのも興味深かった。
方言を活かそうとする試みは、今も行われている。出版されたのは三月だが、東北出身の宇部京子の詩集よいお天気の日に』(教育出版センター、一二〇〇円)には東北弁の詩が入っている。八編の方言の詩のなかでわたしが口ずさみたくなったのは、「ねこやなぎ ほっ!」という詩。「はるだべが/ふゆだべが/めっこを だすべが/どうすべが/んだども/どどっと ゆぎっこ/くんだべが(以下略)」なおこの詩集で不思議に思ったのは、最後の「大寒でござんす」にだけ、共通語訳が下段に併記されていたことだ。なるほど、ここの方言はほかよりもきついのかもしれない。んだども、ちいっとわがりにぐぐども、それでええんじゃながろが? 
宇部は、方言のもつ力だけでなく、共通語の詩でも、花火を音だけで表現する試みのように、擬音語をあれこれ工夫したリズミカルな詩を書いている。さて、リズミカルな言葉が生き生きと活躍するのは、詩集だけに限ったことではない。絵本でも、かこさとしのはいはい のんのん どっちゃんこ』(小峰書店、一〇三〇円)はその好例だ。元気な赤ちゃんが、かえるを皮切りに亀、鰐、熊、カバ、象に会い、そろって滑り台で遊ぶという単純な話だが、動物が登場するたびに使われる擬態語がまず目を引く。かえるの動きは「ぺたぺた ぺたすけ」だし、亀も「のそのそ のんのん」と、表現される。しかも、場面ごとに反復され、「はいはい ぺたすけ のんのん わっせの くんだか かんばか」と、つながっていったときの言いやすさ。思わず頁を繰るたびに「はいはい ぺたすけ」と声をだしたくなる。何人かで受け持ちを決め、タクトの合図で読み合わせをしてもよいかもしれない。
今月抱きしめたいほど気に入ったのは、ふつうの言葉でふだんの会話をしている宮本忠夫のぼくとおかあさん』(くもん出版、一三〇〇円)だった。わたしが宮本の絵本に出会ったのはこれが初めてだったが、実は九二年出版の『ぼくとおとうさん』と対になっていた。二冊とも、ふとしたことで疑問をいだいた仔熊が、親熊の適切な対応に接して安心するという内容。しかし今回のほうが出来は上かもしれない──というより、どうみても母親のほうに分がありそうだ。これはしかたあるまい。なにせ、父親はせいぜい赤ちゃんのときにおまえを風呂にいれてやった、としか言えないのに、母親はお腹のなかにいたときのことを引き合いにだせるのだから。(でもおとうさんも、めげずにがんばってね!)また主題も同工異曲ながら、親は子どもをいつも見守っているよ、というメッセージをさらに深め、親に叱られたときの子どもの不安な心理を、親に思い出させるものになっている。しかし、この絵本の圧巻は、「いけない子ね」という文章とは裏腹に、仔熊といっしょになって採ったばかりの蜂蜜のお味 見してしまう母熊の姿だろう。これはいくつ言葉を重ねるよりも、親子の間柄を確認させるにちがいない。熊というキャラクターが活かされている場面だ。
読書人 1996/10/18
           
         
         
         
         
         
    

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