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 九四年十月にはじまった倉橋ヨウ子『いちご』シリーズ(講談社青い鳥文庫、各五六〇円)が全五冊で完結した。アトピー性皮膚炎に悩む小五の少女いちごが、信州の山の中に引越してからの一年間に、学校でのいじめをはじめ、さまざまな事件にあう話である。いちごは明るい女の子だが、問題が起きれば悩むし、落ち込みもする。だが、登校拒否の男の子を介して、信州の自然に親しむうちに頼もしく成長をとげ、ほのかな初恋も経験する。いつも前向きに悩みを克服しようとするいちごの姿勢は、周囲の友人たちにもよい影響を与える。
こうした展開が悪いとは思わないが、カーテン越しに風景でも見ているようで、主人公といっしょに一喜一憂するまでにはいかなかった。ところどころに、少年は少女を支え助けるもの、というステレオタイプの少年像が感じられたせいか、三人称の文体が上品で、フィルターにかけられたような物足りなさを感じたせいだろうか? 
そんなとき花形みつる遠のトララ』(河出書房新社、一三〇〇円)にぶつかった。こちらも新しい環境に移り、心に悩みをかかえるほぼ同じ年頃の女の子の物語だが、あまたの児童書を尻目に輝いて見える。アーチストの父と美人の母をもつ主人公マキは、都会の有名私立校に通う六年生。ある日、母が離婚すると言い出し、マキたちを連れて実家に戻ることになった。かつて娘の結婚に反対し、以来縁を切っていた祖父だが、娘の帰宅を歓迎した。マキは転校先の学校で新しい友だちもできたが、いなかでの暮らしに溶けこむまえに、クリアしなければならない心の問題があった。
これまでの花形の作品は、地方を舞台に元気な少年たちの活躍を男子コミックのノリで描き、子どもの真実を伝えるものだった。今回は都会の女の子を主人公とした毛色のちがう少女小説だとばかり思っていた──五章で「桜谷原住民」という言葉に遭遇するまでは。実はこれも桜谷シリーズの一冊で、前作『一瞬の原っぱ』とほぼ同じ夏から秋を扱い、あのとき俊二が心をときめかした転校生の側から描いていたのだ。
花形の作品と比べて倉橋の作品が物足りなく映るのは、子どもが理想化されているからだろう。倉橋も、決して完璧な子どもを描いているわけではないのだが、生身の子と感じるには行儀がよすぎる。しかも本人たちが「よい子」になろうと努力しているため、教科書通りの成長を読まされているようで、ときめきをおぼえなかったのだ。それに比べると、花形の子どもは生きている。子どもの気持ちのみならず、みっともない大人たちの姿も手加減せずに描いているせいかもしれない。たとえば、マキは「理想の母親をやってたママは、今じゃキャリアアップに血道をあげてるし、あたしの理想の男だったはずのパパは、離婚届けも出してないうちから女の人を連れ込んでるしという状況にぶつかる。自分が必要とされないことに傷ついたマキは、バリアをはりめぐらし切り抜けようとするが、四歳の妹にはそのような力はなかった。妹にできたことは、祖父が教えてくれた山の大木「トララ」にしがみつくことだけ。いなくなった妹を、俊二たちと必死で探し当てたマキは、幼い妹の哀しみに触れ、心のバリアを解く。そして自分が変わった ことを素直に受け入れる。
というわけで、結末は、やや肩透かしの観もあるし、プロットがずば抜けて斬新というわけではないが、心やすらげる。主人公たちの「成長」を描く代わりに、彼らのなにがしかの「変化」にスポットを当てることで、教科書的臭さをすり抜けることに成功したシリーズなのかもしれない。次作では、一章に登場した「橋本」の後日談が読みたい!
読書人 1996/11/15
           
         
         
         
         
         
    

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