97/01



 ゲームデザイナーの飯田和敏は飯野賢治との対談(『飯野賢治の本』マイクロデザイン出版局)で、「僕はね、あまりゲーム好きじゃないんです」「逃避するにはもってこいのメディアだと思うし、僕自身が逃避したいためにハマったこともあるけれど、それはしちゃいけない」「そうこうしているとどんどん世の中悪くなっていく」と述べる。そのあまりに真っ当なモラルを開示してしまう仕草に、思わず身を引いてしまうと同時に、ストレートな物言いに感動を覚えもするんやね。TVゲーム界の若々しさがそこから見える。
ところで飯田の発言のゲームに児童文学をあてはめ、児童文学作家の発言として読み直してみたとき、ノイズを感じてしまうのかしないのかと考えてみるのもおもしろい。 さて児童文学。
 『はじまりは・ごっこ・から』(高科正伸 岩崎書店)は、離婚した母親と大阪へ引越した梢が、二人きりの生活への決意をしていたのに、母親の恋人と暮らすはめに。という始まりを持つ物語。母親の恋人は家事の得意な作家の卵なのやけど、そんなのとの同居を梢はうれしくない。友達のハルにサポートされながら男に様々ないやがらせをする。しかし男は動じない。誕生日、梢は横浜の父親の家へと逃げ出す。が、ドアを開けたのは父親ではなく若い女やった。彼もまた新しい恋人ができていた。梢は母親の元に帰るほかはない。ラスト、友人のハルは述べる。「子どもというモンは、おとなの現実をうけいれ」なければならない、「子どもはひとりでは生きていけんさかいナ」と。
 『12歳、いま/ガラスの季節』(津島節子 ぶんけい)は、一級建築士の母親と二人暮らしの朝子の物語。父親は朝子が生まれてくる前に家を出ていったきり、一度もあったことがない。周囲は気の毒がってくれるが朝子に気にしていない。むしろ気になるのは、幼稚園のときいじめられたカンナちゃんが同じ学校に転向してきたこと。しかしあるときひょっこり父親が現れ、朝子の気持ちは揺れる。父親がいないということを実感し始める。もう一度二人がなんとかならないものか。ドタバタ、ジタバタを描いた後、物語は述べる。「かけがえのない父親であり、母親であっても、父と母は他人なのだ。いやになったり、うまくいかなかったら、別れるしかない」「子どもの朝子には、どうにもできないことなのだ」と。
 この二つの物語の作法は決して新しくはない。『はじまり』は父親の家でショックを受けたときに主人公が初潮となるという御定まりの展開があるし、『ガラス』は、そのタイトルの凡庸さに呼応するかのように、「心の中をつめたいすき間風が、ひゅうっとふきぬけていった」といった使い古された描写が多様されている。また両者とも終わり近くでクラスメイトが自らの本当の気持ちを告白(ハナは自分の父親が酒乱であり、それに比べれば梢は幸せであるという。カンナは「ごめんなさい。わたし、あなたとお友だちになりたかったの」という)してくれることで主人公の心に余裕が生まれるというお約束通りのサポート体制となっている。けど、そんな作法にもかかわらず、物語は主人公の子どもたちに、「君の願いはきっと叶えられるよ」とは言わず、「君はその現実を許容せよ」と迫るのやね。
 この事態は、子どもは今、近代が発見した子ども像に付与された特権的地位を失いつつあり(もちろんそのことは、大人と子どもの関係性が新たらしく組み替えられようとしているだけで、単に不幸とはいえない。上手にセットアップされればね)、その特権的地位を保証することに、アイデンティティを見いだしてきた児童文学もまた、それを認めだし、新たな関係性の模索に入ったということなのかもしれへんね。

読書人 17/01/97

back