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97/04日曜日午後七時半台『ムーミン』以来二十八年間放映されていた世界の古典や名作児童文学を原作とするアニメ番組が三月に終了した。採用されたテキストは様々だが、原作に忠実なもの(例えば『赤毛のアン』)から、かなり書き換えたものまであり、その処理の違いは、このアニメシリーズが一つのコンセプトによって整えられていたことを良く示している。最も書き換えられたテキストの一つ『若草物語』では、父が不在のまま家族を営む母娘の物語であるにもかかわらずに、不在となる前のエピソードを原作の前に九回分も挿入し、父の存在感を溢れさせている。父の不在のまま成立してしまう物語は相応しくない時間帯としての日曜日午後七時半台。死語を使えば「お茶の間」タイム。そこではなによりも安全な物語が必要であると。 丁度一世代分の時間、そうしたコンセプトのもとに物語が提供され続け、そして受け入れられなくなったことになる。二十三年前の『フランダースの犬』が春休み劇場公開されたけれど、幼稚園児から小学生辺りの娘とその母親という組み合わせが圧倒的。鑑賞後泣いているのは母親が多く、連れ合ってきた母親同士がロビーのソファでパンフレットを覗き込みながら思い出に盛り上がっている側で娘たちがキョトンとしている風景が印象的だった。 同じ映画ビルの八階では現在ブレイク中の『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版を上映。集うのは母娘ではなく、圧倒的に誰かの息子たち。舞台は近未来(二千十五年)。モビルスーツ(MS)に搭乗した主人公たちが使徒と呼ばれる敵と戦うという、ガンダム系の物語。悪から世界を救う子どもが、兵器であるロボットをコントローラーで操る(『鉄人28号』)のではなく、自らがその中に乗り込んで一体化するという設定は、一方では勇ましくも見えつつ、他方ではMSに自閉する姿とも見える。『エヴァ』ではコックピットは羊水のような液体に守られ、MSを動かす電力は基地と繋がるケーブル(へその緒)から得ており、しかも搭乗できるのは個々のMSとシンクロする、母親のいない十四歳の子どもだけとなっていて、その辺りをかなり露骨に表現している。そこに作者(庵野秀明)から子供たちへのメッセージを読み取れるのやけれど、少々説教臭すぎると思った。もっとも、その説教臭が息子たちを引き付けている可能性はある。 さて、児童文学。兄が交通事故死して以来父親が悲しみから立ち直れないため、家族は母親のパートでなんとか食いつないでいて、十一歳のヘンリーも母親を助けようと食料品店で働き僅かながらも収入を得ている(『ぼくの心の闇の声』ロバート・コーミア 徳間書店)。ふとしたことで知り合った老人は強制収容所を生き延びてきた人。彼はナチスによって滅ぼされた故郷の村を木彫りで再現することに老後の日々を費やしている。その作品は市の最優秀芸術賞に選ばれ展示されることとなる。それを知った店の主人ヘアストンはヘンリーに命じる。木彫りの村を破壊せよ。従えば裏から手を回して母親を昇進させてやるが、断ればヘンリーだけではなく母親も職を失うだろう、と。いったい何のために?事が終わった後ヘアストンはいう「おまえがいい子だからさ」。ヘンリーも理解する。「ぼくをいい人間のままにしておきたくなかったんだ」。 物語はヘンリーがそれと立ち向かうさまを描いていていくのだが、だからといって終了したアニメシリーズのような「安全な物語」ではない。悪というものが見ないまま生きていくことなどできないものとして、むきだしのままそこにある。使徒に来襲させずとも、生身の内と外にある悪を描くことはできるわけやね。この悪はMSを脱ぐ脱がないとは関わりなく、コックピットの羊水の中にも含まれている。
読書人 18/04/97
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