97/05



五歳の子どもが幕張メッセで開かれていた東京おもちゃショー会場で行方不明になった。ブースからブースへと必死で探し回る両親。父親は思う。泣いてくれたらどこかの大人が迷子センターに連れて行ってくれて、アナウンスが流れるのに、どうして泣かないのだろう?結局子どもは駐車場の事務室でゲットされるのだが、後に父親がインタビューすると、息子は答える。「泣いている場合じゃないと思った」(子どものことを子どもにきく』杉山亮岩波書店千二百円+税)。ここで私たちが笑ってしまうとしたらもちろんそれは、子どもらしからぬセリフを吐いたと思うからなのやけど、この子どもと同じ状況(現金も、キャシュカードも、身分証明証も持ち合わせず、周りは見知らぬ人ばかりで、しかも自分がどこにいるかもよくわからない)に私たちが置かれたとしたら確かにそれは「泣いている場合じゃない」はずで、ならば彼が五歳であるたったそれだけのことで自動的に笑ってしまう私たちに、彼は間違いなくプライドを傷つけられるだろう。そうはせずそのまま受け止めているこの父親の姿は いい。
「子どもの問題は子どもといっしょに考えない限り光は見えてこないだろう」と記され、中学での講演ののち生身の中学生たちと語った記録である『いじめと中学生』(斎藤次郎 明石書店 一六四八円)もまた同じ姿勢が貫かれていて、子どもたちとうまくアクセスできている。ここに、四半世紀に渡って子どもたちにインタビューし、彼らのモラルを記録した『子どもたちの感じるモラル』(ロバート・コールズパピルス四千円+税)を加えれば、私たちは「子どもらしさ」から幾分かは自由になれるやろう。
さて、児童文学。
「子どもらしい」子どもではなく一人一人そのままの子どもを(ということはそのままの大人を、でもある)描き続けてきた作家の新作が訳出された。
パパとママは喧嘩が絶えない。今日も家庭菜園で楽しい夏の一日を過ごそうと言ったのに、二人は言い争っている。だからレーナは屋根に登る。喧嘩を止め、あわてて近づいてくる両親にレーナは言う。「きょう一日でいいから、けんかしないでいてくれたら、そしたら、わたし、おりる」と。根にのるレーナ』ペーター・ヘルトリング上田真而子訳 偕成社千四百円+税)はこうして始まる。レーナと弟ラルスは両親の関係の修復を願ってはいるけれど、もちろんそれは二人の手が届く問題ではなく、パパは別の女の人と暮らし始め、両親は離婚へと進む。そこで物語は、「泣いている場合じゃない」彼らの精いっぱいの意志表明振りを、お節介な解説や感想を差し挟むことなく、短いセンテンスを連ねて描いていく。
ママの帽子に「どぎつい色の造花」をクリップしてかぶり、Tシャツの胸に「ふよう権?こどもの人権?なーんもかもばっかみたい!」と書いて、町を歩き、ママと弁護士のもとへ出向き意見を述べるレーナ。両親への異議申し立てとして家出も決行したのち、扶養権をめぐる法廷で、「パムとマムはぼくたちが生まれてくるのをねがっていました。なんべんもそういってました。ぼくたちはパムとマムがのぞんだ子どもです。すくなくとも、まえはそうでした。いまはもうちがいますけど」と述べるラルス(彼はパパとママ、どちらを選ぶこともせず、寄宿舎のある学校へと進学する)。
そこにあるのは「子どもらしく」振る舞う子どもの気持ちではなく、レーナの、ラルスのそれやね。
そいつを信頼しようよ、と物語は私たちに呼びかけている。

読書人 23/05/97

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

back