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もし私たちが、主に子どもを読者ターゲットとする物語を児童文学と呼んでいるのなら、それとは別の文学も存在するはずで、たぶんそれは大人文学か成人文学と呼ばれるのやろうけれど、そうしたものは見当たらず、とりあえず文学がある。これはとてもシンプルな構造。大人や成人を冠せずともよいとするそれは、ちょうどMANが人間と男を意味するように、あるときは児童文学をも含む文学、あるときは児童文学とは別のそれを意味する。このことは文学にとってさしたる問題とはならないだろう。それはいつでも文学なのだから。一方児童文学は、文学であるが文学ではないという場所で物語を生成しているわけ。
今月は「子どもと老人」の物語をいくつか読んだ。この設定は児童文学の定番メニューのひとつ。子どもと老人は生産性重視である(であった?)近代においてマージナルな存在となったことはいまさら述べるまでもない(例えばアゴタ・クリストフの『悪童日記』はそこを徹底的に肥大化して描いてみせた)けれど、もちろんそれは子どもでも老人でもない側にとってそうであるということにすぎないから、子どもに身を寄せようとする(少なくとも子どもの視点を採用しようとする)児童文学では様子が違うはず。
自然の豊かな土地で祖父と過ごすことで父親を亡くした悲しみが癒されていくサワコ(『サワコのひとり旅』大西伝一郎文渓堂千二百六十二円+税)。犬を飼うことを許さない理由として祖父が語る戦争体験に耳を傾ける美歩(『テル、ごめんね』及川和男岩崎書店千三百五十九円+税)。いじめによる登校拒否となった孫を守るために立ち上がる老人の姿を見ていじめについて考え始める健太たち(『いじめられっ子と探偵団』鈴木喜代春大日本図書千二百円+税)。
この三作は、それぞれ順に「自然賞揚」「反戦」「道徳」といった主題に沿って物語を展開する。主題の是非はどうでもいいけれど、気にかかるのはそれらの主題を子どもたちに伝える、メッセンジャーとして老人が何の疑いもなく採用されていること。それらのとても正しい主題が、子どもと老人をマージナルな存在とする層ではなく老人から子どもへという回路で描かれること。しごく簡単に述べればこれらの物語の老人は、子どもでも老人でもない層の代弁者として子どもに語り掛けている。だから、これらの物語の老人は、とても老人らしく振る舞い、そのため主人公の子どもも子どもらしく振る舞っていて、シンクロしているのやけれど、両者がマージナルな存在であることを肯定している。つまり語り手は子どもでも老人でもない位置に安住している。次に、
年寄りが大嫌いなのに課外活動で老人ホームに行き、知り合った奇妙なおばあさんに引かれて行くペニー(『ペニーの日記読んじゃだめ』ロビン・クライン偕成社千百六十五円+税)。下校時、マンションの何階かの窓から捨てられたコーヒーを浴びて頭に来、その部屋を尋ねたために一人暮らしのばばあと関わりを持ってしまうさっちゃん(『さっちゃんはマンションでワナにはまった』皿海達哉教育画劇千六十八円+税)。三歳の時ロシアからアメリカに渡った祖母は生き延びる術としてギャンブルの達人となり、それを授されるわたし(『ギャンブルのすきなおばあちゃん』ダイヤル・カー・カルサ徳間書店千四百円+税)。
これら三作は先の三作と全く違うスタンス。子どもと老人は、互いにそれらしく振る舞うことはなく、ただただ出会ってしまうだけ。
同じ児童文学やのに見事なほどのその違いは、「文学であるが文学ではないという場所で物語を生成している」児童文学の有り様をよく示している。

読書人 20/06/97

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     

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