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 この夏公開された『新世紀エヴァンゲリオン』完結編の劇場パンフで鶴巻和哉(25話監督。庵野秀明は26話監督と総監督)は、「実はアニメファン以外の人が観てもしょうがない。(略)普通にコミュニケーションとれてる人が観ても仕方ない作品なんですよ」と述べる。これは、外部(現実)との接触を恐れて内向するな、逃げてはいけないといった『エヴァ』のメッセージと呼応している。
 その完結編、ラスト近くアニメ(内向する非現実世界)が突如実写(現実?)に切り替わり、『エヴァ』関係のイベントだろうか、それに集うアニメファンの姿を、アニメを観にきているアニメファン自身に突きつけた。この方法はあまり有効ではない気がする。あくまでアニメによって語ること。その語りづらさ語りにくさを放棄しては何もならないのではないか。私が「観ても仕方ない」側の人やからそう思うのかもしれないけれど。
 さて、児童文学。「子どもよ、児童文学に逃げてはいけない」といった話を聞かないのは、その場が、大人が想像した児童像を子どもに向けて告知するミラーサイトの一つであったからだろう。そこは逃げ場ではなく大人公認の学習と遊びの場だというわけだ。したがって、「逃げてはいけない」といったメッセージが意味をもつとしたらそれは子ども読者ではなく書き手に対してだろう。「書き手よ、公認された児童像に逃げてはいけない」と。もちろん、語りづらく語りにくいとしても、あくまで児童文学として。
 短編集こわいものなんて何もない』(ジャン・マーク作三辺律子訳1600円+税)はそうした取り組みの一つ。どのようなやからかを説明すると短編の妙味が失われるので控えるけれど、フィクションとしての誇張はあるにしろ、そこに登場する子どもたちは「とても『ごく普通』とはいいがたい」(訳者あとがき)と見えつつ、ただただ子どもであることを普通に生きている。自分が子どもやったのを忘れがちな大人が読めば、自分の中の子どもを再発見できる可能性もある書物。
 有名私立中学に入ったボクは、最近もう一つ勉強をやるきがしない。それだからだろうけど、日ごろ構いもしなかった六歳年下の弟に目を向ける。弟は半年前に交通事故で母親を失ってから内に閉じこもりがち。それもまあ仕方ないことで、そっとしておいたのだが、その間に弟は心の中でポチと名づけたドラゴンを飼っていた。こうして始まるドラゴンといっしょ』花形みつる作河出書房950円+税)は、弟に寄り添い付き合っていくボクを描いている。一方父親は、「子ども専門の医療センターで、精神科のあるところ」へ連れて行くべき存在としてしか弟を見られない。「いきなり精神科、ってのも」というボクに彼は、「まず、脳外科医に診療してもらうべき」かと返答する。「自分の父親がここまでアホだとは知らなかった」とボヤくボク。
 河原に行き、ドラゴンを含めた三人(?)でやるカンケリシーンがとても美しいのは、周りからは「『ごく普通』とはいいがたい」と見られるであろうこの弟を、ボクが丸ごと受け止めているからだ。「かあさんが死んだショックでおかしくなる、なんて、十分まともな反応」なのだと。やがて弟の話しからどうやらママは、ボクとパパがママを必要としていないと思っていたと分かる。とんでもない。ボクはお兄ちゃんだからガマンしなさいとママに言われたから、ママを弟に譲っただけ。
 こうして物語は「ごく普通のいい子」と見えるボクをもそこから解放しようとする。

読書人 17/10/97

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

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