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 子どもたちのサブカルチャー大研究』(労働旬報社1800円+税)に転載されている「第五回世界青年意識調査」(総務庁青少年対策本部1995年)の「悩みの相談相手」によれば日本と韓国だけは「友だち」が圧倒的に多く、「家族」は相談相手としてあまり頼られていない。親の「『信用』のなさはきわだって」(編者中西新太郎)いて、「欧米諸国は個人主義で、日本は家族の結束が強いないんていう思いこみはこの点でまったく通用しない」。もちろん、個人主義と家族の結束は対立しないから、個人主義による互いの距離の明確さが、親を相談相手にしやすくしているということやろうね。相談相手に選ぶ比率が高くなればいいってものではないが、この国では親に限らず大人がそうした相手として信頼されてないとはいえそうだ。そこから中西は「友達」の重要性が子どもに圧迫感として働き、「その大切さが、そういう友がいて当たり前だという強迫観念にすり替わっているとき、『友達』であることの中味も大きく変質してしまうような気がしてならない」と考えていく。「そういう友がいて当たり前だという強迫観念」というのはわかりやすい説明やと思う。友 達関係の作法が変わってきているのだ。
 さて、児童文学。
 あかりの家と壁一つで繋がったお隣は長い間売れの残っている。ようやく決まった買い手は「未婚の母」。夜中に引越ししてきた彼女は「髪の毛が爆発して」いて赤く、おへそ丸出しの下着のようなTシャツ姿。ママからみればその非常識ぶりに、あかりと同い年の娘との付き合いを避けるよう暗にほのめかす。が次の日の朝、ルイという娘はあかりに「友だちになれそう」と親しげにいうのだった。
 おとなりは魔女』(赤羽じゅんこ作文研出版1300円+税)に登場するルイは「ふつう」の家と違うことを、母親から「ママの中に魔女の血が流れているから」という言葉で説明され、「みょうに楽に」なったとあかりに述べる。彼女にとって母親は「相談相手」たりうる。だから新しい作法に合わせようとはしない。とはいえその作法があることは知っているので、あかりとは学校では知らん顔をしようという。作法に合わせないルイは教室での「いじめ」をホームルームで告発。「いじめ」はルイに向かう。友達ではないふりをしているあかりはどうするのか?ホームルームでの話し合いでという手はいただけないが、この物語は作法の構図を一部ながら、子どもの読み手に見えやすく描いている。
 バイ・バイ11歳の旅立ち』(岡沢ゆみ作ぶんけい1300円+税)は、主人公の友人真紀の、蒸発した父親の居所を知ったらしい母親がそれを隠しているのに怒った仲良し四人組が夏休み新潟から東京まで彼を訪ねていく物語。「おじさんがいなくなって苦労したのはおばさんだけじゃないんだよ。(略)なのに子どもはかやの外なんて、大人の横暴だよ、身勝手だよ」。彼らはそれを模擬家出と名づける。やっと出会った父親はすでに再婚しており子どももいる。四人組の一人、わかばが言い放つ。「親なんて、ろくなもんじゃない」。新潟に立ち戻った彼女たちを改札口で待ち受けるのは怒り顔の親たち。「わたしたちは深呼吸して、せーの、で現実にとびこんでいった」。そこから親たちとの相互理解が成立しめでたしめでたしかといえばそうやないのやね。また同じ日常が戻り、「わたしたちはときどき、すごーく年寄りみたいな気分で、あの二日間をなつかしく思う」だけ。
そうだと思う。
 最後、「旅のゴールは、スタートライン。わたしの人生はそこからはじまる」はいらないだろう。

読書人 21/11/97
           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

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