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 月のさかな』(井坂洋子作河出書房新社950円+税)に関する書評の中に次のフレーズがある。「子供のために書かれた童話だが、なにかがあって成長したり、感動したりという話はあまりない」(荒川洋治朝日新聞97、11、23)。つまりフツーの「子供のために書かれた童話」は「なにかがあって成長したり、感動したり」する話が多いということ。
 これは児童文学を説明するとき、的外れではない。ルソーが植物に喩えた「子ども」は向日性を是とされ、そうした状況に於いて児童文学は「成長」の輪郭や方法を子どもに伝達するメディアとして機能することもあるのやから。で、『月のさかな』は、そうではないと、フレーズはほのめかす。
 読み進むと、「ここにあるのは、なにかをやり遂げる子供ではない」に遭遇する。「なにかをやり遂げる子供」とは、「成長」の輪郭をなぞる子ども像のことだろう。ここでもフレーズは、フツーの児童文学とは違うテクストであることを強調することで、『月のさかな』を評価しようとする。そして結語、「時勢に和するものではないだけに、童話を書きつけている人や、子供に、かたちだけの成長を願いつづける人には、とても不思議なものに見えてしまうかもしれない。さわやかな特性をそなえた、おとなの作品である」。ここに至って「童話を書きつけている人」は「時勢に和するもの」を書いている人のようであり、しかもそれは「かたちだけの成長を願いつづける人」と並列され、『月のさかな』を賛辞するための道具となる。
 そして「さわやかな特性をそなえた、おとなの作品である」。ここでの「おとな」は評価基準として使用されている。「子供のために書かれた童話」でありながら。それが賛辞として書き留められることにノイズを感じないのは、書き手の中で予め「子供のために書かれた童話」なんぞというものが、小説や詩の周縁に、置かれているからなのやろうね。
 もっとそれは、この新聞(に限らない)の書評委員が二週間に一度集う席に、予め担当によってチョイスされ山積みされた書物の中には、はなから児童書なんかはなく、それらは、「家庭面」の担当に「下げ渡され」ているのだろうから、しょうがないけれど(『月のさかな』が席にあったのは、作者が「童話を書きつけている人」の側ではないからではないのか?)。やれやれ。
 さて、児童文学。
 『月のさかな』は、「なにか遠い。先生も遠く、現実自体が遠」く、「親しみがうまれそうになると、億劫になる。(略)愛着をもつことがムイミに思われる」中学生まどかの気分を内側からなぞっていく。可愛がっていたオス猫マオの失踪、毎朝七時四十七分にすれ違う男子高校生への想い、幼児期の「神隠し」体験等が、個別のブロックとしてではなく、有機的に絡まり重なりあってページは進んで行く。私は中学生の女の子を経験したことはないけれど、男の子の経験に重ねても、「自分は中途半端だと思」ってしまうこの年頃の「気分」をうまく描いていると思う。そうした「気分」という「なにかがあって」まどかは「七時四十七分までにと、こだわらなくなっていく」わけ。とてもシンプルな成長の物語やろうね。
 けれど、「感傷は、禁じられた行為の代償のように湧くのだ」だとか、「一瞬は灰色の年月に耐えたごほうびみたいなものである」といった、ナレーションに散見する「おとな」の言葉は、この物語が照準を合わせている読者との間に距離を作ってはしまわないか?せっかく読者が、まどかの「気分」に寄り添おうとするときに。
読書人 19/12/97
           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

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